地味であるがゆえの名作
淡々と進む追跡劇
地味。この映画を語る最初の一言は、まずそれだろう。本作のプロットは、暗殺者ジャッカルがシャルル・ド・ゴール大統領を暗殺するために抜かりなく準備をし、身を隠し網をかわしてパリへと向かっていく視点と、そのあとをピッタリと追いかけていくルベル警視の追跡の二つからなるわけだが、そのどちらもがなんだか大変に地味である。簡単に言えば、山場というものが欠けているのだ。中盤の盛り上がりとか、最初からグイグイ惹きつけるだとか、そういうケレン味は一切ない。ただ大統領を暗殺したい男と、それを阻止したい男の、派手さも遊びもない真剣勝負を、リアルに、実直に、そのままな雰囲気で描いている。昨今の映画ならありえない地味さだろう。故に、娯楽サスペンス映画として本作を見た人は、「眠たくなった」と評することとなるに違いない。
何が地味なのか
本作が地味である理由のほとんどが、リアリティへのこだわりが徹底されていることによるものだろう。例えば、ジャッカルの身分の偽り方。幼くして亡くなった子どもの名前を使って、出生記録をひねり出しつつ、矛盾を出さずに検閲をスルーする手法など、思わず真似したくなるような賢い方法だ(普通に犯罪です)。アクションを重視する映画であれば、そんなものは「偽名を使いました」の一言で終わらせるものを、その使い方までしっかりと考えた上で示すのだから、激しく納得せざるをえない。そしてまた、それを看破する警察側もまた素晴らしいのだが、そのやり方というのがまぁ、人手に任せたローラー作戦なのである。そりゃあ地味にもなるだろう。ローラー作戦とは言っても、当然、偽名の作り方を熟知した上で、調査対象を明確にした上でのローラー作戦なわけだから、その作戦には知性のほとばしりを感じなければいけないところなのだが、しかし、映画としては画が地味すぎる。普通のサスペンス映画であれば、ここは何か、調べるべきポイントを一点に絞る電光的・革新的アイデアによって観客をアッと言わせるべきだろうに。少なくとも、ジェフリー・ディーヴァー原作やトム・クランシー物であれば、キャラの立った切れ者が名探偵コナンのようにピカリと閃きを見せてくれたことだろう。とはいえ、実際の捜査現場においては、そんなものはない。ルベル警視のように、大まかなあたりをつけて地道にやって、そしてやっとこさ手がかりを見つけるというのが一番の方法なのだが……いかんせん、映画としては……地味である。
地味なのは原作再現
この映画には同タイトルの原作があるわけだが、内容はほとんど同一と言ってよい。当然ながら多少のアレンジは加えられているが、地味さや緻密さはそのまま残されている。だが、原作は小説である以上、地味であることもまた味である。いやむしろ、描写が緻密であるがゆえに、一つ一つの攻防に息詰まる迫力さえあっただろう。なぜなら小説は、そもそも全てが文章から成り立っており、視覚的な迫力が存在しないからだ。あっと驚くようなアクションも、淡々とした日常の風景も、基本的に全て文章という同一のもので構成されているため、根本的に大した差を感じ得ないのだ。ゆえに、原作小説の方は、内容は同一ながらも「ハラハラする」とさえ表現されてもおかしくはないシロものだ。この部分の差をどう見るかに、この映画の評価はかかっているように思う。
地味だからこそ
本作「ジャッカルの日」とは別に、「ジャッカル」という映画がある。ブルース・ウィリス主演の、コテコテのハリウッドスタイルな活劇映画である。「ジャッカル」はもともと、「ジャッカルの日」のリメイク的な立ち位置として作られた映画なのだが……実際は「ジャッカルの日」の製作陣のほとんどが「ジャッカル」をリメイク品として認めるのを拒んでいる。だって、別ものなんだもの。そうしてみると、本作「ジャッカルの日」は、地味であることがアイデンティティであり、そこを拒んでは「ジャッカルの日」ではなくなってしまうのだ、とも言えることに気が付ける。そうなのだ……実は本作の地味さとは、リアリティや緻密さの側面としての結果であり、それらは派手な活劇とはトレード・オフな関係なのだ。前述した偽名の獲得エピソードだって、それを調査するジャッカルの抜け目なさと頭の良さを語るには必要不可欠なものであって、またそれを追う警察の捜査の姿勢も、実際にジャッカルの計略を見抜くための唯一にして最上の手段なのだ。そう、抜け目のなさと頭の良さ。これが、本作を示す真の標語である。
リアリティが作り出す真の知力
頭の良い人物として悪役が描かれるのは別によくある話なのだが、しかし、大抵の作品において、彼らはどこかオマヌケだ。ある時は傲りのため、あるときはヒーローの活躍を彩るために、「なんでもっと早くそれをしなかった」的なヘマをやらかす。言ってしまえば、どこかプロレス的なのだ。もちろんそれはそれで面白いし、見ていて楽しい単純活劇としては大いにありなのだが、しかし、そんなハリウッド式方法論では決して描けないものもある。それが、ジャッカルというキャラクターが持つ、本当の頭の良さ・抜け目なさというものだろう。または、ルベル警視の几帳面かつ、地味な有能さなのだろう。この両者の攻防は、紙一重を重ねてパリにまでいたり、最後の最後は結局、運と根気が勝負を決する瀬戸際にまで至ったわけだが、その間に一点でも、ハリウッド式ケレン味を入れ込んで、誰かに格好つけさせてしまっていれば、お互いが間抜けに見えたことだろう。ジャッカルが馬鹿なことをしてしまうと、それを見抜けないルベル警視までトンマに見える。そういう遊びがないからこそ「ジャッカルの日」は「ジャッカルの日」なのであり、地味でありつつも緻密な描写へとつながっているのだろう。
ところで、そんな実直な有能さを持つヒーローとして有名なキャラクターといえば、やはりトム・クランシー物でお馴染みの主人公、ジャック・ライアンが挙げられると思う。彼もまた、確実な頭の良さを売りとして受けたキャラクターだ。が、ここであえて、筆者はルベル警視とジャック・ライアンを比べてみたい。すると、どうだ……やはり、ジャック・ライアンは格好良すぎるということに気が付けるじゃあないか。綺麗な奥さん、可愛い子供たち、斬新なアイデア……そして本人のイケメンさ。真に有能な人物が、見た目までキレイに兼ね備えている必要性は全くない。ならば、よりリアリティを出すためには、あえてでも普通の見た目の人物を起用するべき、ということになるだろうが、ルベル警視のキャスティングはやはり完璧と言っていいだろう。ここにもまた、本作が持つ一つの決定的特徴が見られる。
結局大事なのは原作愛
本作の淡々とした印象は、小説の雰囲気をそのまま持ってきたものである。映画であれば当然の派手さからあえて目をそらし、原作通りに一つ一つのシーンを組み立て、脚本を整え、キャスティングも行ったがゆえの帰結なのだ。ここがまず、昨今の映画とは一線を画するポイントなのだろう。小説「ジャッカルの日」とは、「レッドオクトーバーを追え!」でもなければ、「ボーンコレクター」でもない。それらの持つ派手さとは無縁の、言ってしまえば、商業的に映画向きではない作品であったのだ。それを映画化にするにあたって、あえて映画的方法論を取らずに、そのままの雰囲気で描ききったからこそ、本作は名作と呼ばれている。ハリウッド的なサスペンス映画は確かに楽しい。しかし、全てのサスペンス映画がハリウッド的である必要性はどこにもない。「ジャッカルの日」の独自性は、地味さとは切っても切り離せない緻密性にこそある。「ジャッカル」のように派手にしてしまうのは不正解なのだ。本作は、最近のハリウッドの、なんでも派手にして商業的にしてしまう傾向への一つのアンチテーゼとして、未だに鋭い輝きを放っているように思えてならない。
「ジャッカルの日」が「ジャッカルの日」であるために必要な条件を、筆者はその地味さの中に見た。
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