鈴木先生に教わりたかった
「鈴木先生」の良さは、神は細部に宿るという姿勢
2011年のTVドラマ「鈴木先生」は、これまで見たいわゆる先生もののドラマとは一線を画す作品であり、とても意義のある作品でした。1980年代に一世を風靡した「3年B組金八先生」を代表とした一連の教師ものの作品の流れは、時代の流れとともに、次第に時代錯誤で求心力を失ったものになっていき、この作品をもってある意味「完膚なきまでに」終わったのだと感じました。
最初は低視聴率ではじまったこのドラマが、こうして映画化されるまでになったことは、この作品が多くの人の心を動かした証拠であり、こういうものがきちんと評価されることは、素晴らしい事だと思います。
テレビドラマは、1話45分ほどなので、短いもののように思ってしまいがちだけれど、実際はそれが10話前後あるのだから、実際の作品の尺は7時間半もある。そう考えると、映画に比べると随分言葉を尽くし、表現を尽くして緻密に物語れるとも言えると思うのです。
この作品の肝は、「神は細部に宿る」ということなんだと思っています。この言葉は、「細かい部分にまでもこだわりを貫く事でこそ完成度が上がる」というような意味に間違った使われ方をすることが多いですが、もちろんそうではなくて、「小さなことが大きなことにつながっていく。小さなことに注意深くあること、軽んじたりおろそかにせず、大きいことと同様に真剣に向き合うことが、大きな結果の違いを生む」ということです。
「鈴木先生」の良さは、一見そんな程度の事くらいで、というささやかなことに、ものすごく鈴木先生が時間をかけて思考し、苦悩し、歓喜することにあります。ちょっとこっけいなくらいで、大げさで、コメディ的に思える鈴木先生の姿勢が、しかしこれは大げさでもなんでもなく、深い意味と価値を持つものだと作品が進むにつれて観客は驚きと共感をもって実感することになります。細部をあなどっていた自分の浅はかさに気づかされ、目を開かされる。
作品によってはテレビドラマの映画化は難しい
ですが、こうした繊細な題材は、テレビドラマという形態だからこそ表現しやすかったのだなということを映画を見ることで改めて感じました。一見陽のものが陰であり、一見きたないものが実は美しかったりという、ひととおりでない価値観や、知らずに巣食っていたさまざまな硬直的な思い込みの落とし穴といったものを、ドラマでは、それなりに時間をかけて、説得力を持って表現していた、その完成度の高さに気づかされた思いでした。
一体、映画という媒体は、2時間という制約された時間の中で大きな起伏を作り、作品の予備知識がない人にも納得できる、ひとつのまとまったお話として完結させねばならぬという縛りあります。実はなかなか無理があることなのですね。
もちろん、鈴木先生の哲学は映画においても貫かれていたし、作品としてもそれなりに面白く見たのですが、映画であるがゆえに、無理にドラマチックにしたりといった弊害を、「鈴木先生」という作品だからこそ感じてしまった部分はありました。
そんな違和感はあっても、この作品はとても面白いし、作品の持つメッセージに深く共感する事には変わりはないのですが。
鈴木先生に教わりたかった
鈴木先生の哲学が、それまでの典型的な熱血先生と全然異なる部分は、「成長過程にあり、未熟な子供であるところ生徒を、大きな器と、成熟した考えを持った教師が愛情深く導く」という基本姿勢を真っ向から否定していることです。作り手はむしろ、こういった考え方に強い違和感を持ち、時には憎みさえしているように思えます。
先生という人たちも、間違いもおかすし、エゴも性欲も普通にある取るに足らない一人の人間であるということを、この作品は早々に種明かししています。クラスの小川蘇美というカリスマ性のある女生徒に妄想を抱く鈴木先生は、教師が高潔でも完璧でもない、つっこみどころ満載のただの若い男であることを端的に語っています。
その上で、先生が先生たり得るのは、先生という立場にあって先生を演じているからで、生徒が生徒たり得るのも、生徒という立場にあって生徒を演じているからである。そこには生きて来た時間の差による経験値の違いはあるが、人としての器や、深い洞察において生徒が先生より劣るとは全く限らないし、むしろ先生も生徒に教えられつつ成長するのだという基本姿勢があります。
だから、だめなところも色々ある普通の男の人である鈴木先生だけれど、先生に値する存在ではないということには全然ならないどころか、生徒に深く信頼されているのです。鈴木先生は、子供の無知や経験不足や先生という社会的立場を利用することをせず、ひとつも生徒を馬鹿にすることなく、ある意味対等な人間同士として、リスクを負って真剣に生徒に向き合っているからです。
事なかれで済ませるように沈黙することも、その場を丸く収めるための表面上の優しさも、責任を回避するための一般論に終始することも採用せず、自分自身の考えは自分自身の考えとして、いつもはっきりと表明する。
そして、明快なひとつの答えを導き出すというカタルシスに依らない、多様性を多様性のままに尊重しようとするということの大事さを繰り返し説いている。タイトルデザインの、カラフルなペンキでてんでに押された子どもたちの手形には、多様性の祝福という意味が込められているのだと思います。
翻って、私たちの身の回りはどうでしょうか?
この作品は、現代の日本における学校教育に対するある種の皮肉であり、アンチテーゼであると同時に、とても愉快でためになる、平成の時代に生きる先生と生徒にとっての、また子供を育てる親にとっての良き教材となりうる作品であると思います。
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