「somewhere」役割の脱皮から、自分探しへ
映画の冒頭、主人公のジョニ―が荒地をフェラーリで疾走し、ひたすら旋回する。
響きわたる爆音とスピード、そして焦燥感。
この映画は、ジョニ―の存在の不安定さが大半を占めている。その脱出に至るまでの過程、つまり不安感の果てに自分探しへと旅に出るまでが、この映画の物語なのである。彼の存在意義を探しに行くという始まりが 、映画のエンドロールなのだ。
以下、女性と家族(娘)の関係とその役割のなかで、ジョニ―の存在基盤が揺るがされていく点に着目し、この映画について語りたい。
俳優としてのジョニーと、女性たちの存在承認
主人公のジョニ―はフェラーリを乗り回し、泊まる先々で出会う女性達と関係を持つ。ホテルの隣室、俳優の女性、デリバリーのダンサーとセックス三昧な生活を送るやや堕落した日々。一見すると、髪の毛はボサボサで、だらしなくお腹が出た、どこにでもいるただのオッサンだ。そんなオッサンが、自己顕示の象徴であるフェラーリを颯爽と乗り回す。そう、彼には“映画俳優”という“ステータス”があるからこそ、女達が群がって彼をもてはやすのだ。同様、そのエサをダシに、彼自身も本能的な孤独感から女性を求める。しかし、女性との関係を持ちつつも、常に背後には不安感が忍び寄り、脅かされる生活を送っている。プライベートの女性から送られるメールでは悪態を突かれ、共演した女優からは、あんたとのセックスはサイテーと卑下される日々。しまいには、しつこく迷惑メールでも脅される。ジョニ―が軽薄に女性を求める行動が、彼自身の安全な居場所を浸食し、脅かしているのである。セックス以外であれば、特定の女性と関係を持つことがない。むしろ、一度関係を持つことによって女からヤリ捨てられた?という怨恨を買いながらも、それでも別の女性との体の関係を重ねていく。そのような境遇を味わいながらも、セックスの一瞬だけが、彼の存在を肯定する唯一の行為なのだ。非常にリスキーな、承認要求の満たし方である。
父親としてのジョニ―
娘のクレオと過ごす時間は、ジョニ―の理想的な居場所であった。彼女がスケートリンクで踊るのを見つめ、テニスゲームを一緒にプレイし、寝食を共にする。純真無垢な娘の存在に癒され、父親としての自身を再認識する。しかし、その背後には常に女性の影が忍び寄る。クレオと車で出かけるとき、追っかけではないかとその背後を気にするジョニ―。彼は、父親でありながらも。俳優であり、その役割に揺れ動く様子が捉えられる。クレオと過ごす幸福な空間には、その破壊者が常に潜んでいるのだ。ホテルの階下、隣室、娘との楽しい一時を過ごしたあとにも、モンスターのごとく部屋に潜んでいるのである。クレオにもそのことに気づき、父親との関係にはわだかまりが生じている。それでも二人で過ごす時間は、まるで小学生の夏休みのように神聖なものであり、彼女と心の繋がりを実感するのである。
家族崩壊と役割からの脱皮
勿論、いつまでもそうした幸福は続くわけではない。彼には俳優としての仕事があり、クレオの父親として、離婚した妻と一度壊れた関係を修復する必要があるのだ。クレオがふいに車中で母親の不在と、俳優としての父親に対して孤独感を漏らす。それにより、ジョニーは永遠に彼女の父親としての役割だけで存在できないことに気づき始める。役割を跨ぐには、あまりにも彼自身が不安定な存在だからだ。もう一度、父親としての承認を得ようと、別れた妻を電話口で求めるが、彼女から冷たく突き放されてしまう。彼は孤独を味わうにつれ、彼自身の存在意義を意識し始める。特殊メイクを施され、鏡を見た瞬間、そこに全く別のジョニ―が存在しているように。つまり、彼自身が何者でもないからこそ、逆に何者でもなれるのだ。俳優でもない父親でもないジョニ―は、一体何者であるのか?映画の後半部分で、娘や関係の持った女性たちにサインされたギブスを外した瞬間が、まさにそれを暗示している。紛れもなく役割からの脱皮行為であり、ジョニ―が裸になった瞬間である。映画の終盤は、彼は俳優である自己顕示のフェラーリを捨て、自身の居場所を探して歩み始めるのだ。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)