謝罪の王様、究極の謝罪とは
『謝罪の王様』のテーマは謝罪と【?】
阿部サダヲが好きなので、『謝罪の王様』を映画館で観た。
『謝罪の王様』は2013年の日本のコメディ映画である。脚本は宮藤官九郎、主演の東京謝罪センターの「黒島所長」を阿部サダヲが演じている。彼は謝ることが仕事。弁護士に相談するまえに、東京謝罪センターへ、という触れ込みで最初の依頼人がやってくる。依頼人でもあり、のちに黒島の助手になる「倉持典子」を井上真央が演じている。
映画は黒島と倉持典子を中心に、次々に依頼人が登場する形式で進んでいく。それぞれの依頼人の登場に応じて、Case1からCase7までに別れていて、他の場面と内容が少しずつ重なり合っていく。細かいところを見ていくとなかなか面白い重なり方をしている。コメディタッチの映画ではあるが、ほっこりする笑いも多く、さわやかな気持ちになる映画だった。どのCaseでも謝罪が描かれている。それぞれの謝罪は別のモノだが、根底には通じるものがある。ここでは映画の細かなシーンではなく、大まかなテーマについて考えてみたい。
本編のテーマはもちろん謝罪。謝罪というとどんなイメージがわくだろうか。黒島所長は、東京謝罪センターの紹介の場面で「究極の謝罪」があり、それを「土下座の向こう側、土下座のかなた、土下座越え」と表現している。本当にそういうものがあるのだろうか。映画の前半部分は様々な謝罪のケースを描きつつ、土下座で問題を解決する黒島たちだが、後半部分で本当に土下座を越える謝罪があるのかどうかが描かれる。映画の中では「そんなものない」と言い切る黒島。最後まで見ても結局ズバリの答えはでてこない。それは何だったのかは、観ている人々の解釈にゆだねているような気がする。
私が思う究極の謝罪はありきたりな言い方だが、相手との関係を修復し、今まで以上に良い関係になりたいという「純粋な気持ち」なのではないかと思った。しかし気持ちは言わなきゃ伝わらない。気持ちは行動して相手に届かないといけない。だからお辞儀だったり土下座だったり、手土産なんかの目に見える「カタチ」が必要なのではないか。この映画では一対一の謝罪から、国家同士の謝罪まで、様々な大きさの謝罪が扱われている。しかし、映画を通じて一つの共通点があるように思った。一番最後のシーンでスクリーンの中のみなが笑いあっているのが、印象的だった。相手に謝って、和解できて、心から笑いあえる。謝った側も謝られた側もとびきりの笑顔を見せることができる。究極の謝罪とは謝罪の「ノウハウ」そのものではなく、謝罪後のお互いの関係ではないか。その関係が修復されさらに発展していくことが大切なのではないか。
Case2 に見る謝罪
Case2に出てくる岡田将生演じる「沼田卓也」の謝罪はまさに謝罪後の関係がステキな、良い謝罪だと思った。同じ職場の女性へのセクハラを謝らなければならない沼田が依頼人だ。黒島所長が沼田に、謝罪のアドバイスを与える。相手への誠意を示すこと、相手の言い分を聞くこと、じっくり聞いた後は相手を褒めること、目上の人間に立ち会ってもらうこと、そして大事なものを犠牲にすること。こうした提案はことごとく裏目に出てしまうのだが、沼田は最後にシンプルな言葉で謝る。黒島は「日本人はベタなのが好きでしょ」という。確かにそうだ。ベタだからこそ、取り繕う謝罪は相手に伝わってしまう。「本当にごめんなさい」の一言は、簡単に思えるが気持ちがないと出てこない。いわゆる誠意が伝わるコトバだと思う。プライドを捨て、心からの「ごめんなさい」が言えた時、相手との関係はもっと良いものになるのだ、と思わせるシーンだった。
Case3 に見る謝罪の「カタチ」
昨今の日本では、謝罪の「カタチ」ばかりが重要視され、本当に大事な気持ちの方がどうもおいてきぼりになっているのでは、と思うことが多い。それを表しているシーンが、Case3の依頼人「南部哲郎、壇乃はる香」だ。彼らは芸能人で、息子が一般人に対する傷害罪で現行犯逮捕された、という状況。二人も謝罪会見を開かなければならなくなり、黒島所長を訪問する。この状況、最近の日本の謝罪会見の事例ととてもよく似ているのだ。いくつかの謝罪会見を思い浮かべることができる人も多いだろう。子供が起こした事件で親が謝罪会見を開く。不倫が発覚して本人や配偶者が謝罪会見を開く。集団暴行を起こした大学生が所属する大学が謝罪会見を開く。なぜか2016年は謝罪会見が多い年だった。芸能人であるという理由でカメラの前で謝罪会見をしなければならない、という風潮が最近、より強いように感じるのは私だけだろうか。よく考えると、もし一般人が芸能人に対する傷害罪で捕まったからといって、謝罪会見を開くことはないのではないか。謝罪会見自体もナゾが多いがさらに謝罪会見後のマスコミの報道の仕方も似ている。謝罪会見を分析し、どの部分が良かった、悪かったと批判される。お辞儀が長すぎる、短すぎる、服装が派手すぎる、などなど。映画の中でも、夫婦が謝罪会見を開くのだが謝罪会見、釈明会見、釈明会見の謝罪会見・・・。何のために謝っているのかわからなくなるほど、謝罪が泥沼化していく。ついに倉持典子がこういう。「なんでカメラの前で謝らないといけないんですかね」「本当に誤ってほしいのは・・・」そう、被害者です。全くその通り。
私も昨今の謝罪会見を見ていつも不思議に思っていた。なぜ本人に謝るより先に、カメラの前で視聴者に頭を下げなければならないのか。不倫なんて、本人と周りにいる家族以外にとってはどうでもいいこと。社会的影響が、とは言うが報道がなかったら、一般人が芸能人の不倫を知ることは皆無に等しいだろう。映画のシーンでも、世間を騒がせたといいつつ、「結局みんな楽しんでいますよね」、と倉持典子がつぶやく。特に不倫会見など、全く自分の生活とは関係ない第三者の不幸は、面白い。まさに対岸の火事。
映画ではそのような視聴者の態度を皮肉りつつ、本当に謝らなければならない「被害者のAさん」と対面し、本当の謝罪が実現する。ほっこりする、ステキな場面である。被害者のAさんが放つ言葉も印象的だ。どちらにもそれぞれの過失が存在する。交通事故で10:0はほとんどないのと同じ。見方を変えることによって、どちらの側にも謝らないといけないことが存在する。
Case7が問いかけること
Case7 の依頼人は(?)となっている。そして映画はエンディングへと進んでいく。Case7、は映画を観ている人一人ひとり、これから謝罪をしなければならないあなた、へのメッセージとなっている。
私たちの生活の中では映画のようなオオゴトにならなくても、小さな謝罪は日常茶飯事である。謝罪の王様を観たあと、私たちの謝罪はどう変化していくのだろうか。そしてどんな謝罪が良い謝罪なのか、を問いかける内容となっている。
映画のまとめとして
そんなことを思いながら、じっくりとエンディング曲を聴くとまたあらたな発見が生まれる。エンディングで流れるE-girlsの謝罪ダンスの中でこんな歌詞がある。
“ごめんなさいは I love you あなたをもっと大事にするから”
この映画のテーマ、謝罪を行う理由は相手への気持ち。相手をもっと大事にしたい、もっと良い関係を作りたいという気持ちが、本当の謝罪なのだ。
気持ちを正直に表現するのがやや苦手な私たち、日本人へのメッセージともとれるのではないか。直接会って言えないひどいことをメールで相手に投げつけてしまったり、ツイッターにはつぶやけるのに、リアルでは何も言えなかったり。当たり前のごめんなさいを、当たり前に言えるようになりたいと思わせる映画だった。
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