疑似から真性の恋愛関係へ
ビリーとレイラの関係性の変化は、二人を捉えるカメラワークと比例していると考察する。
筆者はカメラが人物を捉える描写に着目し、
ビリーとレイラが疑似から真性へと向かう恋愛関係の変化ついて考えたいと思う。
主体の消失=遠距離感
前半シーンで特に印象的なのはビリー宅での会食シーン。
ビリーの家族とレイラが各々四方に腰掛け、
目の前で展開する会話を捉えている視点が次々と変わる。
そこでは視点を捉える主体が消失しているため、
家族それぞれが何を考え、この会話を交わしているのか不明瞭である。
(ビリーに関しては思い出話のなかで過去を回顧しているが、あくまで自己で内省している)
家族で一家団欒というにはほど遠く、ただ客観的に会話と人物を捉えているだけである。
この描写がビリー家における冷え切った関係性=愛の不在を表現していると考える。
家族団欒で会食をした後の帰り路では、ビリーとレイラの会話が
車窓を映しているなかでひたすら展開していく。
出会い初めの二人は映像的な距離感=実際の関係性として表現されているのである。
実際の関係性とは、疑似恋愛として契約をしただけの他者なのである。
疑似性交体験による接触
二人の距離感が一変するのはボウリング場でのシーン。
ビリーはボウリング場のオーナーに彼女を恋人として紹介し、
(初めて家族以外の他者に恋人として認識させる)
ビリーのロッカーに張られた昔のガールフレンドにレイラは興味を示す。
ここで二人の関係性が恋愛的なもとして肉付けされる。
極めつけはボウリングのシーン。
二人の身体単体が順番にアップされ(決してツーショットにはならない)、その身体に緊張感が走る。ビリーがボウリングの玉を丹念に磨き、しなやかに指を入れる。
上着を脱ぎ、豊満な肉体を露わにするレイラ。
ここでは性交の前戯的な様相が暗喩的に表現されていると捉える。
しかし、ビリーの意識はボウリングの玉とピンのみ(男性器を象徴か?)であり、
彼は独りでストライクを連打し、レイラにその様子を見せつけるだけだ。
まるで自慰行為に耽っているような彼に対し、レイラは寂しさを醸し出しながらダンスを踊る。
しかし、この描写から二人の距離感が一気に近づく。
過度に身体接触を避けていたビリーがレイラと密接にくっつき、
ボウリング場にあるスピード写真でスナップを撮る。
いわば疑似セックス的体験(極めて自慰的なものに収まっているが)により、
疑似恋愛が真性の恋愛関係へシフトしているのである。
(あくまで仲の良い夫婦のフリではあるが・・・)
恋愛関係=近距離感
その後、ビリーとレイラはホテルに泊まるまでの道中、
道中にある臓器移植の看板、「人生と決断をともに」へ向かって二人が歩む。
これはこの先の二人の関係性の暗示であると捉える。
初めは二人のツーショットが遠距離的なものであったが、(カメラから排除されていたが)
その後のホテルでは本物の恋人同然の距離感で風呂場、ベッドの空間をともにするのである。
レイラと交わるなかでビリーは自己の内面を表現し、愛を交わす。
非常に短期的なスパンで二人は恋愛関係へと発展するが、だからこそ
特殊な映像手法を加えることで疑似から真性への変化を表現しているのではないだろうか。
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