深くて暗い映画
実話ならではのリアル感
末期ガンで余命宣告を受けた妻に適切な治療を受けさせず、車で連れ回して見殺しにした罪で逮捕され不起訴処分となった夫の物語。思わず眉をひそめてしまうような酷い話は世の中にゴマンとあるが、きっとそれぞれ言うに言われぬ事情があって及んだことなのだろう。そんな当たり前といえば当たり前のことが素直に心に響く映画だった。人間関係の“溝”は、互いをより深く知ることによって埋まる。では罪とは一体、何だろう?
この映画は当事者による手記が原作になっているようだが、そちらにはあまり興味がわかない。病気、借金、職を失うこと、生活に困窮すること。できることなら一生関わりたくないテーマの連続だ。そんな気の重くなるようなテーマも、美しい映像の流れを気軽に見守っているだけで、自然と主人公の心情に心を寄せることができる。あくまで“他人事として”。それが映画のいいところだと思うのだ。
ただこの映画の場合はどうだろう。主人公の男性は、中学を卒業するとすぐ縫製工場で働き始めた人だ。そこで妻の瞳さんとも出会った。そこから独立して事業に失敗し、多額の借金を残したことがのちの逃避行の土台となっている。三浦友和の演技からは主人公のそれまでの生き方とか価値観とか、そうした下地の部分がちっとも見えてこなかったのだ。映画を最後まで観終わったとき、私の中であの役はまんま「遠藤 憲一」のイメージそのものだった。堺雅人主演の大河ドラマ「真田丸」で上杉景勝役を好演したシブい俳優だ。
湿気が強い
結婚してからというもの家庭を顧みず、外にオンナを作ったりして奥さんを泣かせ、最後に会社をつぶすダメ男。それが妻の余命宣告を機に心を入れ替え、まるで罪滅ぼしでもするかのように献身的に介抱したり我がままを聞いてやったりする夫。どうしたって、三浦友和ではありえない。
ところが、まったくイメージの違う三浦友和と、ナチュラルでかわいい石田ゆりこ演じる妻の堕落と逃避行は、逆にものすごくリアルな実話として伝わってきた。おっさん、おかあさんと呼び合うあたりが、ふたりの関係性とか内面的なものをよく表現している。おそらく演出ではなくオリジナルなんだろう。
瞳さんは、なんで一回り近くも年の違う男性と結婚したんだろう。ふたりの微妙な夫婦関係が、彼女の生い立ちも過去もぜんぶ浮き彫りに見せてくれるかのようだった。あれは演じる人の実力なんだろうか。それとも原作と演技がまったく乖離したことで、ストーリーだけが独り歩きしていたのだろうか。きっと評価も別れることろなのだろうが、とにかくいろんな意味で湿気の強い映画だ。
自分もガンに罹ったってゼッタイ病院なんかには行きたくない派なので、ふたりが医療行為を拒否したことにそれほどの抵抗は感じなかった。だが久典と一時も離れたくないという瞳の心境を映画の中から読み取ることができなくて、最後まで共感することができなかった。単純に、子供に戻って甘えていたかったのだろうか。結婚してからずっと疎ましがられてばかりいたから、最後くらいは一緒に居てもらいたいとか、ちゃんと下の名前で呼んでほしいとか、おそらく瞳さんご本人の言葉をそのまま採用しているのだと思うが、台詞で語られているほどには伝わってくるものがなかった。
堕落するって怖いことだ
そして、ふたりが全財産を封筒に入れ、車で旅行を始めるシーン。もっと他に方法はあっただろうに、とりあえず一番楽な方法を選んでしまうふたり。どんな未来を期待していたんだろう。“心に従った”結果だろうか。知りたくもない。まったく夢も希望もない。あまりにも現実に近すぎるのだ。全ての執着を捨て、全てを捨てることで得た一瞬の「解放感」。そんな一瞬を私も主人公たちと共有した。そして解放感のあとに待っている恐怖感。
ある程度の経験を積んだ人間なら簡単に想像できる結末だ。否、それは想像という名の死への強い恐れだ。そら言わんこっちゃない、と心の声がする。私はホームレスが好きではないのだが、理由は簡単で、彼らを見ていると自分もいつ地道に生きることが嫌になって、すべてを放り出してしまうかわからないという変な強迫観念に駆られてしまうからだ。
誰だって、わずらわしいこと全部かなぐり捨てて、その日暮らしをしてみたいという願望を持っている。お金さえあれば、いまの仕事なんて今日にでも辞めたいという人はたくさんいる。それを踏みとどまるのは貧困によって生命を維持できないかもしれないことへの恐怖だろう。その心配さえなければ、ホームレスの気ままさを心のどこかで羨ましいと思っていたりするのだ。実際、両者はそれほど差がない。きっと人間が心の底で求めているのは幸せなんかではなく、どこまでも広がる自由と時々の“刺激”なのだろう。
この夫婦も、我知らず心のどこかでそんな刺激を求めていたのかもしれない、と想像しながら映画を観察する。そして、不治の病で余命短い妻との逃亡生活という刺激的な出来事が「日常」へと少しずつすり替わっていくことへの恐怖や焦りを、気が付けば再び主人公たちと共有している。
人間の脳は「退屈」することが死ぬほど嫌いだと本で読んだことがある。人生は長い暇つぶしだと。おそらく育児ノイローゼの原因もこれにあたるのだ。頭の中では信じていないのに、今の状況が永遠に続くような気がしてしまう。同じことの繰り返しに耐えられない。それは自分が貧しさの中にあっても、逆に豊かさに慣れてしまっても同じことだ。
そんな陰鬱で受け入れがたい「病と貧困」という現実が、借金に変わる「日常」となって再びふたりの逃避行に追いついて来たとき、覚悟していたつもりの“最期の日”だけが唯一確かなものとして近づいている。日に日に妻はできることが少なくなって、最期は「火垂るの墓」みたいな悲壮感ただよう様相を帯びてくる。
石田ゆりこは最後まで美しいが
モルヒネなしに末期がんの痛みに耐えようというのだから、傍で見ているほうも大変だったと想像する。主人公で原作者の清水久典氏は、ふたりで心中しようという流れになってもおかしくなかったと、雑誌の取材で語った。そういう道を選ぶ人だっているだろう。それも含めて“自然な病死”というものなのかも知れないと感じた。
この話が映画になってしまう今の世の中は、戦後「人の死」というものが日常から遠くなったことで、特別なものとして避けるという不自然さを隠しているのかもしれない。死を避けることと、命を大切にすることはあまり関係がないということが、この映画を観ているとよくわかる。実際はじめは保護責任者遺棄致死の容疑で逮捕され非難されていた清水久典氏も、起訴猶予処分という結果で新しい人生を再スタートさせたし、妻との逃避行は美談として語られるようになった。常識なんて時代そのによっていくらでも変わるのだ。
あれは愛だったのか
人の目には「共依存」と映りかねない夫婦の関係も、現実逃避といわれてしまいそうな夫の行動も、“瞳の死”という大きな節目をふたりで乗り超えたことで、人の心の奥底にある何らかの「願望」みたいなものの対するひたむきさへと昇華したように思う。それは別の言葉でいえば人間が生まれながらにして持つという「原罪」との対峙なのかもしれない。「共依存」よりもっと原始的な夫婦の関係を、ふたりは体現したのではないだろうか。
いざというとき、本人の意志よりも尊重されてしまうその人の命。人の意志は命よりも価値のないものだろうか。普通の精神では耐えられないような状況の中で、彼らは一度堕ちたら二度と這い上がれないところまで落ちることを選んだ。無気力に任せて堕落するだけでは到達できないところまで逃げようとした。私の目には、その精神が実に疎ましく映ったのだ。
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