俳優の演技力が面白さの明暗を分ける
役所広司さんが面白い
役所広司さん演じる向坂の理不尽さが、本編の笑いの全てを担っていると考えられます。
当作品の主人公は、稲垣吾郎さんが演じる椿一です。しかし、本編の中で、主人公であり主役の存在を、喰ってしまっているのが向坂の存在です。それだけ、存在感が大きく、演技が光っていることの表れと考えられるのではないでしょうか。一方の稲垣吾郎さんはSMAPとして、歌や踊り、タレント業でも活躍されている方です。
やはり、演技の面では、役者業を専門としている役所広司さんに分があるのだと考えられます。
役所広司さんといえば、「Shall we ダンス?」で主演されていたイメージがあり、とても穏やかな印象の方です。しかし、当作品の向坂は、「Shall we ダンス?」のイメージとは全く異なるもので、堅物の印象が強いです。また、戦時中における警察官というのは、恐ろしい印象であり、怒らせようものなら逮捕されてしまう時代だったことでしょう。
今作品の向坂という役は、「Shall we ダンス?」で見せた役所広司さんとは全然違う顔であり、役所広司さんの引き出しの多さに驚かせるものでした。役所広司さんのプロフェッショナルな仕事ぶりに支えられた作品といえるのではないでしょうか。
特に、向坂という人物は、笑ったことがない、と自身で言い切ってしまうほど堅物の人物像です。
しかし、そんな人物が笑ってしまう不気味さを上手く演じておられます。自然に笑うのではなく、顔面に力が入った笑いの表情をされています。一般的に、笑ってしまうときには脱力状態になるのではないでしょうか。顔に力が入った笑いは、明らかに不自然な表情であり、不気味さを感じさせるのです。
堅物であり、怒った時の剣幕は恐ろしく、笑ったときの表情が不気味な人物像が、向坂の人物像なのです。こんな難しい役であり、気難しい人物像を見事に好演されています。
椿一という人物像
椿一という登場人物は、稲垣吾郎さんの演技が光って面白いのではないと考えられます。
椿一というキャラクター設定が、そもそも面白いのです。そのことから、稲垣吾郎さんが演じなくても、本編は面白かったのだろうと考えられるのです。椿一は圧力に屈しない人物像で、それを表面に出しません。表向きには、礼儀正しく、素直に謙虚に指摘や意見を聞き入れる人物像だと考えられます。
ただ、椿一という人物像の魅力は、他人からの指摘や意見から、自分なりの解釈を見出すところにあるのではないでしょうか。
それは椿一という役、人間性に魅力があるのであって、稲垣吾郎さんの演技によるもので再現されているのではないと考えられるのです。椿一という人間性が魅力的なのであって、稲垣吾郎さんが魅力的なのではないと考えられます。すなわち、SMAPの稲垣吾郎さんという知名度を活かして、主演に据えることで、世間一般への作品の存在そのものの浸透を図ったキャスティングがされたと考えられることができるのではないでしょうか。
椿一の面白い舞台を作ろうとする姿勢が、物語性における本作品の面白さになっています。
心が折れることのない強さは、凄い熱量の情熱を持ち合わせていることの表れであり、椿一という人物像の魅力になっていると考えられます。椿一の観客を笑わそうとする姿勢は、終始に渡って、一貫されているものです。椿一の舞台の観客を笑わせようとするネタが、映画作品として画面の前の観客や視聴者を笑わせることに転化されています。
物語・脚本作りの上手さが表れているところなのだと考えられます。
向坂と椿の攻防
本編で向坂が語っていることに、椿一に無理難題を押し付けることによって、上演許可を出したくなかった経緯がありました。
椿一もそのことを理解しており、折れることなく立ち向かっていたのです。笑わせる場面の裏側に隠れた見えない攻防と考えることができます。そして、折れずに何度も立ち向かう椿一の姿に、堅物だった向坂が自覚しないうちに変わっていたのだと考えられます。向坂という固かった氷が、椿一の情熱という熱量によって、本人の知らぬ間に溶けていたのではないでしょうか。
本編の見どころとして、向坂の少しずつ変わっていく変化にあるのだと考えられます。
そして、本人も気付いていなかった変化だったことで、自覚したとき、向坂は物語序盤のころの姿に立ち戻ってしまいます。しかし、赤紙を貰いながらも、面白い台本作りに手を抜くことがなかった椿一の姿に、向坂という氷は完全に溶けてしまったのでしょう。
向坂にとっては皮肉だったことだったのではないでしょうか。
笑ったことのない向坂は、椿一によって笑うことを教えられました。しかし、向坂を笑わせてくれる椿一は出征してしまい、きっと帰ってこない人になってしまうのです。こんなことなら、椿一に知り合うこともなく、笑うことを知らない人生のほうが良かったのかもしれません。
しかし、向坂自身は、そんなことを微塵も感じていないようです。
きっと、堅物だった向坂という人物像が完全に変わってしまったことを表しているのではないでしょうか。最後の場面で、椿一に対して、向坂が「生きて帰ってこい!」と叫びます。これは、非国民と非難され、警察官としては許されない行為だったはずです。そして、その言葉を、相当の堅物ぶりだった向坂が言い放っているのです。
向坂という人物像の変わりようが、本作品の最大の面白みだと考えられるのです。
三谷幸喜の凄み!
改めて、振り返って冷静に考えてみると、無理のある物語です。
椿一と向坂は、水と油であり、本来は噛み合わない相性と考えることができます。それが噛み合うから、ドラマチックな物語として成り立っているのです。しかし、冷静に現実問題として考えたときに、噛み合って、理解し合える関係性になるのでしょうか。
冷静に考えてみると、少し現実的でなく、やはりリアリティーに欠けるのです。
しかし、本編を観ていて、無理矢理な展開だと思ったでしょうか。改めて、冷静になって振り返らないと疑問に思わないのです。それが、三谷幸喜という人の凄みだと考えられます。
それでは、どんな手法で、無理矢理な話を自然に押し通しているのでしょうか。
それには、三つの手法があることに本編を観ていると気付かされます。
一つ目は、過剰な演出による効果を狙ったものがあります。向坂が怒りに震えた場面では、向坂を過剰にズームアップしているのです。向坂の顔面が画面一面にズームアップしている場面が多いのです。逆に、椿一においては、過剰にまでズームアウトされている場面が多いです。不自然なまでの過剰な演出をしていることで、無理矢理な展開を、自然に押し通しているのだと考えられます。
二つ目は、突拍子のない場面を差し込むことで、意図的に、観客を不自然に感じさせていることです。その代表例は、取調室で椿一と向坂が、想定された舞台をしていることです。明らかに、向坂という人物像を考えれば、椿一のことを相手にしないと考えられるのです。突拍子のない場面を差し込むことで、本来の無理矢理であろう展開を無理矢理に感じさせないのです。
三つ目は、音とテンポの扱い方にあります。新しい一日が始まるときには、毎回、同じBGMが用いられていました。繰り返し、用いることで観客に刷り込む効果を狙ったものです。しかし、注意すべきなのは、同じBGMを用いながら、テンポや曲風にアレンジが加えられているのです。しかも、徐々にですが、アップテンポに変化しています。それにより、意図的に、観客のリズムを狂わせているのだと考えられます。
この三つの手法により、本来は噛み合わない二人が噛み合ってしまうという不自然を、無理矢理に押し通しているのです。しかも、観客には無理矢理だと感じさせずに、それを押し通しているのです。
頭や歯が痛いとき、手の甲をつねることで、注意を逸らして、痛みを和らげる手法に似ているのかもしれません。
これこそが三谷幸喜という監督の手腕であり、手法の凄みだと考えられるのです。
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