拳銃は、生き物を殺すための道具だと改めて理解する
これから起こる状況を楽しんでしまった
「物語の中に拳銃が出てきたのならば、その銃は撃たれなければいけない」というのを、なにかで読んだことを記憶している。この小説もまた銃を拾うことから始まり、いずれその銃は撃たれなければならないという予感と緊張感を持ちながら物語は進んでいる。
中学生のときの社会の授業が、教科書をひたすら出席番号順に句読点読みするだけを繰り返すので、とにかく退屈だったことを思い出す。なにかこの退屈な授業が中断されるような、台風で学校の一部がふっとんでしまうとか、SPIが突然現れてなにか宇宙人とか大きな敵と戦い始めるとかありもしないことを妄想してすごした。本当にそんなことが起こって欲しいわけではないけれど、そんな想像をしている時間は楽しく、退屈な時間がいくらかやわらいだ。
この主人公は、わたしのそんな社会の授業中の過ごし方を日常的におこなってしまっているのだろうと感じた。
なぜこの狂気に共感してしまうのか
拳銃を拾ったことで、主人公は自身の理性のなかに拳銃を感じるようになる。街で肩をぶつけられたサラリーマンや話しかけていた警官に対してある種の暴力的な思想をめぐらすようになり、ゲームをプレイするように楽しんでいる。拳銃という、引き金をひくだけで手軽に人を殺すことができる美しい道具を手に入れたために、主人公は浮かれている。退屈な日常を、自分のタイミングでいつでも中断することができるからだ。
「私は上機嫌のあまり、何か気の利いたことがしてみたくなり、警察に死体を発見したとでも電話しようか、という考えを浮かべていた。」
死体を発見したら「警察に通報しなければ」と慌てるのが普通の小説だと思う。でも主人公は上機嫌のあまり「警察にでも通報してやろうか」と考える。ここが本来の人間の狂気的な部分であるようで、とても面白いと思う。わたしも銃を手にしてしまったら、そんな風に思うだろうか。
主人公がぼんやりとしか見えてこない
最後まで通して、拳銃の色や形や重さは実際に見たかのようにありありと感じられるのに、主人公の実態は全く見えてこなかった。まるで黒い人間の皮をかぶった中身のない物体のようだと思った。周囲の人間であるヨシカワユウコやケイユケ、トーストの女も、名前を漢字でさえ書かれないからまるで現実味がないし、人物像がまったく見えてこない。
主人公が銃を撃つラストシーンは、目をそむけたくなるほど痛々しいし、衝撃的だったが、銃を拾った最初から、そのラストシーンにならざるを得なかったとも感じた。わたしも銃を撃ってしまったような感覚になり、退屈な日常を壊してしまいたいなんて考えたことが怖くなった。
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