これはリメイクか新作か
偉大なる『ゾンビ』のリメイク作品
ジョージ・A・ロメロの名は、ゾンビ映画ファンなら一度は聞いたことがあるだろう。
ブードゥー教のよみがえる死者(=ゾンビ)という意味ではなく、今日存在するあらゆる「怪物・ゾンビのひな型(=我々が普通に思い描く、人肉を求めさまようゾンビ像)」を作り上げた作品・『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を作った偉大なる映画監督である。
そのロメロの出世作であり、「ゾンビ三部作」と呼ばれるロメロゾンビ第二作目の作品が『ゾンビ』である(余談ではあるが、声優・櫻井孝宏は、「『ゾンビ』は人生が変わった映画」とまで称している)。
『ゾンビ』は1978年の作品であるが、2004年にそれをリメイクした作品が現れた。それが『ドーン・オブ・ザ・デッド』だ(ちなみに、『ドーン~』の監督はザック・スナイダー)。
といっても、『ゾンビ』と『ドーン・オブ・ザ・デッド』はストーリーや構成にそれほど類似点は見受けられない。せいぜい、ショッピングモールに立てこもる生存者たち、といったところだろうか。
カメラワークや台詞にもオマージュと呼べるものはなく、「ショッピングモールを満喫する生存者」といったファクターの他には、「映画冒頭から突然ゾンビパニックが始まった(あるいは始まっている)」という状況が挙げられることぐらいだろう。
むしろ『ドーン・オブ・ザ・デッド』は、精神性・構成・ストーリーにも『ゾンビ』のリメイクとは言いがたく、むしろ事情を知らない筆者のような人間にとってはなぜこれがリメイクと呼ばれているか、不思議に思うぐらいだ。
とはいえーー『ドーン・オブ・ザ・デッド』の、一つの映画作品としての出来は素晴らしい。リメイク作品としてではなく、一作の映画作品として観るならば、充分に楽しめる作品だろう。
『ゾンビ』リメイクだと思って観ると、色々損をする
もう少し、本題となった『ゾンビ』について掘り下げたい。
『ゾンビ』は偉大なる作品であると筆者は折に触れて述べてきたが、なにをもって「偉大」であるかはっきりさせる必要がある。
ざっくりと述べると、まず一つには「ゾンビ」という存在をこの世に作り上げた「ひな型」たる意義がある。
そして、もう一つは、「ゾンビパニックという状況下において、人間の恐ろしさが発露する」という点だ。
この世には数多くパニックホラーが存在するが、かつて人であったゾンビは、「数の多さと増殖する恐怖」という特性を持っている。例えばホラー・ファクターである貞子やサメが街を占拠する、ということがないように、「ゾンビは人間の日常生活から生まれ、世界を支配していく」という独自の性質を持っているのだ(『エイリアンvsプレデター2』のエイリアンなども、もしあのまま放っておかれたら同じ道をたどっていたかもしれないが)。
ゾンビによって街が滅び、人々はわずかになった生活圏を求めさまよう。食料を奪いあい、弱肉強食の世界となる。『北斗の拳』がいうところの「世紀末」のはじまりだ。
ロメロは、「1・ゾンビという人間が変じた怪物を作り」、「2・彼らによってライフラインは途絶え」、「3・生存者たちがどう生きるか」を最初に考え、作ったという功績を持っているのだ。
ロメロ『ゾンビ』はこの三つの展開のうち、「3」がもっとも見どころとなっている。つまり、パンデミック状態となった街で人間たちの醜さがどう映えるか、という点だ。ビールを飲みながら、ゾンビを的にして遊ぶ人間たち。パイを投げつけたり、トマトをつぶしたり、ゾンビが身に着けている服飾品を奪ったり……。物語の随所に挿入されるこれらの演出こそが、もっとも『ゾンビ』の恐怖演出(ホラー)といっても過言ではないだろう。
一方、『ドーン・オブ・ザ・デッド』は人間の醜さ・恐怖というものはあまり掘り下げられていない。
むしろ、ショッピングモールに立てこもった人々は、互いに協力しあい、命を助け合う。バスで逃げてきた人々を全員受け入れ、近所のガンショップの男性を助けることを画策し、犬のために命を張る。一度は追放した警備員とも、互いに憎しみを持ち続けることなく、最後は協力して脱出する。
こういった「人間賛歌」といったところは、明らかに本題の『ゾンビ』とは意図が異なる。
だが、それを非難しようという気持ちは、筆者には湧かない。むしろ、「それでいい」とさえ思わせてくれるのだ。
ゾンビパニックという極限状態において、協力し合う人間たちの姿。美談やご都合主義であることを頭の端で理解しながらも、「こういうホラーを観たかった」と思わせてくれる。
これこそが、『ドーン・オブ・ザ・デッド』最大の魅力である。
ホラーとしての『ドーン・オブ・ザ・デッド』は
一方で、ホラー作品としての『ドーン・オブ・ザ・デッド』も語っておかなければならないだろう。
この作品で一番取り上げなければならないのは、「走るゾンビ」は可か否かという問いかけをゾンビ作品ファンにもたらしたという点だろう。
普通、ゾンビというのはのろのろと両手を突き出しながら歩くものだ。『ロンドンゾンビ紀行』などでは「年寄りとゾンビの歩行速度は一緒」と揶揄されるように、気を付けて走っていればまず掴まることはない。
だが、『ドーン・オブ・ザ・デッド』は走るゾンビという設定を採用し、これまでにない斬新なゾンビ像を作り上げた。ゾンビたちは走り、時には人間離れした凄まじい運動能力を披露して、生存者たちに襲いかかる。
この設定が「アリ」か「ナシ」かと言われれば…筆者的には「ナシ」だ。
まず、ゾンビというビジュアルが効果的に見えない。口から血を流している生者か、はたまたゾンビなのか、見た目からまるで区別がつかないのだ。これがまず弱点の理由。
そして、視覚的にも大して怖いと思えない。幽霊にしろモンスターにしろゾンビにしろ、ホラー・クリーチャーは、「不気味な怖さ」というのが何よりも重視される。人間の理解を越えたものに、人は恐怖を覚えるものだ。“恐怖的効果による不意打ち”“理解できないモノのおぞましさ”こそが、ホラーの醍醐味ともいえるのに、「人間のように走るゾンビ」では、視覚的にも創作的にも物珍しさはなく、たいした衝撃も感動も与えられないであろう。
以上のことからも、『ドーン・オブ・ザ・デッド』は一つの映画作品としては良作だが、『ゾンビ』以上とはいかない、と締めさせていただくことにする。
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