「トラウマ必至のラスト15分」の実態は
「トラウマ映画」「後味が悪い映画」の代名詞
『ミスト』はホラーの巨匠スティーヴン・キングの『霧』を題材にしたパニックホラー映画である。
スティーヴン・キングについては、もはや説明は不要であろう。『キャリー』『シャイニング』『グリーン・マイル』などなど、日本でも数多く知られる映画作品の原作者でもある。日本の著名な作家・漫画家もキングの作品に影響を受けていると公言しており、日本のサブカルチャーにおいても多大なる影響力を持つ人物といえるだろう。
そのキング原作の『霧』に、監督であり脚本家でもあるフランク・ダラボンが脚色し造り上げた作品。それがこの『ミスト』である。
キングの『霧』とダラボンの『ミスト』。この両者をことさらに取り上げたのは、やはり二つの結末が大きく違っていることによる(ちなみに『ミスト』を観て、これからキングの『霧』を読もうと思っている読者がいらっしゃったら、以降はネタバレになるので注意されたい)。
『ミスト』は主人公のデヴィットと息子のビリーを含めた五人の生存者が、避難先のスーパーを脱出し霧の彼方を目指すもガス欠になり、四発の銃弾で心中するエンディングになっている。子供を撃ち殺した絶望のなか、「霧のむこうの何か」に食われようと車を出た主人公の目に映ったのは、霧の晴れた視界と、「何か」を倒していく軍隊たち、そして最初にスーパーを出た女性とその子供たちだった……。
もし、主人公がさっさとスーパーを出ていれば、助かったのかもしれない。もし、主人公がミセス・カーモディの言うとおりにスーパーにとどまったままなら、助かったのかもしれない。もし、拳銃を拾わずにいたら、また別の選択があったのかもしれない。もし、主人公たちの決断が、あと少し遅ければ助かっていたかもしれない……。
このように、『ミスト』はあらゆる「if」を考えさせてしまうエンディングだ。このエンディングをして、『ミスト』は後味の悪い映画の代名詞と称される。
一方、原作の『霧』は軍隊が登場せず、霧も晴れないまま終わってしまう、という。主人公たちの行く末がどうなったかは開示されないままのエンディングという訳だ。
つまり『ミスト』のエンディングはキングの手を離れた結末ということになる。そうでありながら、『ミスト』のラストは原作者であるキングも唸らせたという。
そしてダラボン監督は、結末について観客の想像に任せるという発言をしているようだ。こうしたことも踏まえて、『ミスト』の結末はネット上などで熱い議論が交わされている。筆者も、微力ながら討論者の末席に座したい。
キーワードの「霧」こそが最大の恐怖なのではないか
ここからは、筆者の意見が中心となることをご容赦されたい。
ストーリーや設定についての考察は、鋭い観察眼を持たれた先輩方の意見を拝聴したいところだ。ネットを探してみると、『ミスト』の結末については激しい議論が交わされ、飽和状態の様相を呈している。
そんななかで筆者は、「なぜ『ミスト』はこんな悲劇的な結末に至ったか」について口を挟ませて頂こうと思う。
先にも述べたとおり、『ミスト』の結末は極めて残酷だ。
エンターテイメントにおいては「子殺しのタブー」というものが存在する。
社会的弱者であり、保護すべき対象である子供の死、しかも実子を自ら手にかけるという究極のタブーを『ミスト』は犯した。ゆえにショックな結末として語り草になったのである。
結末以外は、キングの『霧』とほとんど一緒だ。ということは、タブーに踏み込んだのはダラボン監督ということになる。
ダラボン監督はなぜ、原作の結末を改編してまでこのラストを造り上げたのか? また、ダラボン監督が意図したかったこととは何か?
まず取り上げる必要があるのは、ラストシーンのメリッサ・マクブライト演じる主婦(子を守った母親)の成功とデイビットの悲劇という対照的な結末だろう。共に子を守ろうとした親として、二人の結末は大きく違ってしまった。
普通の映画であれば、主人公であるデイビットはビリーと共に生還し、人の意見を聞かず出ていった主婦は死んでいることだろう。『ミスト』ではそれが逆になっている。
映画のセオリーを覆すによって、観客に強烈なインパクトを与えたかった。まずこれは、クリエイターとしての意図で、ダラボン監督はこの点において成功している。
第二に、ダラボン監督は「霧」という特性を活かしたかったのではないか、と思う。
はっきりいってしまえば、『ミスト』は結末以外はそれほどパニックホラーとして物珍しい作品ではない。『ミスト』がここまで有名になったのは、一重に結末の力が大きいといえるだろう。
ゆえに、他のホラー映画と一線を画すために、原作にもある謎の多い「霧」を本作の心理的要モチーフとし、ストーリーの方向性のかじ取りを任せた。
「霧」は、よくホラー映画のキーファクターとして使われる「闇」よりも不気味で、かつ神秘性をもはらんでいる。
同時に、悲しいときの「雨」や「雷雨」と同じく、登場人物の心象風景を表すのに最適な状況描写だ。
正体の知れぬ怪物、心を許せない人間たち。人間としての無力感、そして不安。「闇」が光で照らせばどうにかなるのとは違い、見通しのきかない霧が主人公たちを追い詰める最大の恐怖となった。
先の見通せない、閉塞感に満ちた「霧」というステージ特性ゆえに、視界不良に陥った主人公たちはバッドエンドに向かっていった。
いわばあの結末は、「霧」よってもたらされた必然的なもの、と捉えてもいいかもしれない。
結末は謎のまま
『ミスト』の結末がどういった意図によってもたらされたものか、まだまだ議論は絶えない。おそらく制作側から答えが提示されることはないだろう。
読者諸氏の意見も、聞いてみたいものだ。
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