きれぎれな世界を、演じつつ信じる軽やかさ。浄化される重さ。 - きれぎれの感想

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きれぎれ

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文章力
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ストーリー
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きれぎれな世界を、演じつつ信じる軽やかさ。浄化される重さ。

4.04.0
文章力
4.0
ストーリー
2.5
キャラクター
2.5
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2.0
演出
4.0

目次

辛さとわからなさ

いきなり自分の話から始めると、私はアホである。行き当たりばったりのその場しのぎで何とか生きてきたと思う。

しかし幸運にも、今のところあまり経済的には貧窮していない。一応友人関係や家族にも恵まれている。かなり不真面目なふざけた生き方をして年を重ねてきた人間がそうして生きていられるものだから、人からはそんなに苦しむ必要がないように見られることが多い。


それでも人間、誰でも生きていると真面目にならなければやっていけない場面は必ずあって、アホもアホなりに真面目に生きれば、その分「辛いなぁ」と思うこともある。自分程度の人間が「辛いなぁ」と思うのだから、清廉で真面目な大半の人々はこれよりもっともっと「辛いなぁ辛いなぁ」と思いながら日々を過ごしているはずだろうと想像する。真面目に生きれば、辛いことは避けられないのだから。


しかし自分含め、辛い人々の群れはみな決して「辛いなぁ」と思いながら生きていたいと思っていない。そうだろう、わざわざ不幸せになりたいがために産まれた人も生きている人も、まずいないはずだ。

では辛さはどう生まれるのだろう。おそらく、一人きりでは生まれない。辛いなぁと思いたくない貴方と私。幸せになりたい貴女と俺。誰も辛くなりたくはない。それなのになぜだか、辛くなりたくない+辛くなりたくない=辛いになる。人は人と関わると辛くなる。それでも人は人と断絶して生きてゆく事はできない。


辛さの正体とは、人と人の「わからなさ」。そして「わからない」にも関わらず人が生きる時にそこから逃れようがないという構図なんじゃないか。この逃れようのない辛さを真正面から、文学として取り扱っているのは町田康の「きれぎれ」である。


滅茶苦茶であるという事が整然とする


文学として扱うとはどういうことかと言えば、それがこの小説を難解、人によっては単なる滅茶苦茶に見せている部分である。すなわち「わからない」事を「わからない」ように記述し、その流れ自体を描写していくと言う手法だ。


「わからない」事を「わからない」ままに記述する等ということは本来不可能である。だってそれは「わからない」んだから。いや正確には記述はできるが、わからないものはわからないのだから、見た人が読んで理解できるはずがない。例えば文庫版10ページの4行目で主人公の妻はぽーんと飛んで地面で断裂、つまり普通に読めば飛び降り自殺をして死んでいる。12行目ではハッキリ「孤独な死」と書いてある。それが、14行目に移るといきなり妻は「鯉が滝登りをしている軸と枯れ葉の突っ込んである青磁の壺のおいてある床の間の前でヤキソバを食っている」のだ。


これをただ主人公の白昼夢あるいは妄想と現実の境目の無さ、単なる狂人と断定するのは簡単なことだ。ストーリーを追う内に、確かにこの主人公は社会不適応でどこか過剰な部分を持て余し折り合いのつけられない、社会化された視線でシンプルに書けば「頭のおかしな男」であることがわかる。「頭のおかしな男の戯言」とするのが、この小説の最も簡便な理解の仕方である。


しかし厄介なのはこの理解というもので、他者を理解をするには、理解する側と理解される側の二者の幸せな結託がなければ実現不可能ということだ。理解されるべき対象は、理解を示す気がある者があってはじめて理解される。

「理解不能」「頭のおかしな男の白昼夢」という安全な「理解」でもって切って捨てるのは受け取り手の怠慢でしかない。こうした理解とは、つまり、ノイズの除去だ。「これはこうである」とすることによって安定させる秩序をつくる働き。ある前提から導かれる論理、ないしは妥協によって一定の秩序を作りそこからはみ出したものを無いことにし安心し納得する、という仕組みが一般に「理解」とされてしまっている。


幸か不幸か人間は一人一人が理解されえない個別の個でしかありえない。この身も蓋も無い事実。「個が個であるという大きな括り」、一定の流れ、個が個であるがゆえの共感、一見矛盾するこれを文学は描くことができるし、それが上手くできた時に傑作と呼ばれる。

とすれば偉大な文学の条件とは、絶対的な独りであり個であるという寂しさを他者に共有させる事が出来るか否かとなるわけだが、それをこのように持って回った言い回しで説明をするのは決して文学ではない。それは批評や評論もしくは感想といったもので、意味やテーマを説明して納得するのは、例えば物語としてならば「有り」であっても、文学としては失格だ。

交わらないものがそのままにある事を整然と表現した時、それは目に見える実を結ばず、難解ないし滅茶苦茶、として我々の眼前に現れる。


外側からの安全な理解、それゆえの笑い


90年代、バブルが崩壊し、援交ブームが起こり、阪神大震災が起こり、オウムがサリンを撒いた。戦後は50年を迎えて日本人は目指すべき場所を失いターニングポイントを迎えた。こうした手垢のついた理解をあえて示すのは、信じるべき価値の加速度的な崩壊について確認したかったからだ。


物語が崩壊していく90年代にあって、人間の本質的無秩序を描き、その事によって笑いを誘う町田康が評価され台頭したのは自明だったのかもしれない。一点は、人間の個が剥き出しになった時代の主観的無秩序を見事に描写することによって。一点は、それをまるで他人事であるかのように俯瞰して笑わせる巧妙な仕掛けによって。共感と俯瞰の反復こそが町田の小説の文体に笑いを作り出していて、ゆえにそこには物語はなく未来に何も残らない。文庫版112ページ「いつだって到達ポイントにはなにもない」。そしてそれは動物の世界が意味を持たない弱肉強食だからこそ残酷で美しく見えるように、町田文体はグロテスクでありながら、だからこそキラキラと輝く。


人間の主観的感覚を正直に書いていけば「きれぎれ」であり、誰もが自らの見る世界を白昼夢でないと証明することは出来ない。主人公の辛さを我々は笑い、滅茶苦茶だと「理解」をするが、自身の滅茶苦茶さにはその笑いの仕掛けによって理解を及ぼすことがない。だからこそ、安全にそこで笑っていられる。


人間とは、実際は決して理解されえるものではない。一人一人の頭の中、同じ対象を見ていてもその色、嗅いでいる匂い、聞こえる音、それらが同じであることはわからない。だからある尺度を決めて、もしくは決められて、自分の立ち位置とは相容れない他者をブロックし遮断し断絶する。そうして、「理解」出来た人間と人間だけが結びつき、辛くないふりをかろうじて保つ。それが生活や社交や政治と言われるもので、限られた交流範囲でしか生きられなかった昔は家庭や職場といった共同体から炙れて拗れてしまっていた人間たちがいた。しかしSNSを始めとしたインターネットの発達により同好の士を見つけやすくなって、それらの溢れ者はグッと生き安さを担保しやすくなった。


そうだろうか?なのにどうして、こんなに辛そうな人々が溢れて見えるのだろう??少数の不器用な人間が可視化されているだけ?

違う。どんなに自分に快適な場所を作っても、本質的に人間は独りで生き独りで死ぬ事実から逃れられないからだ。真面目に人が人と関わり合う限り、そこから逃れることが叶わないかぎり、我々の辛さは解消されない。みな、解消された演技をする事しか出来ない。


演技を演技と思わない者と、演技にメリハリをつけられる器用な人間だけが、町田康の滅茶苦茶を笑える。笑うがゆえに救われた気になるが、それは本質の先送りであって、救いではない。そのような人々は、実は、その軽やかさゆえ救われる必要が無い。

演技できず信じた振りの出来ない不器用者は、町田の小説を、ありのままの人間の真実を笑う事が出来ない。笑ってはいられない。しかし、救われる。ありのままの姿は、美しいからだ。「きれぎれ」によって、きれぎれだからこそ、不器用者は浄化される。


どちらが上というのではなく、そのどちらの側にもフィットする。そこが町田康の小説の、とりわけこの「きれぎれ」という小説の、凄いところなのである。

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