浜口儀兵衛のプロフィール
本名 | 浜口儀兵衛 |
---|---|
よみがな | はまぐちぎへえ |
生年月日 | 文政3年6月15日(1820年7月24日) |
年齢(作品時) | 42歳 |
性別 | 男性 |
国籍 | 日本 |
所属 | 江戸で醤油工場(現ヤマサ醤油)を経営する実業家 |
物語上での目的 | 緒方洪庵の遺志を継ぎ、醤油倉を使って醤油職人にペニシリン精製をさせるなど、仁に協力する。 |
生い立ち | 紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれる。12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移る。その後、若くして江戸に上って見聞を広め、開国論者となった。海外留学を志願するが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行った。嘉永5年(1852年)、同業の濱口吉右衛門(東江)・岩崎重次郎(明岳)とともに広村に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図った。嘉永7年(1854年)頃、七代目濱口儀兵衛を相続する。 |
経歴「稲むらの火」 | 安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が広村に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている(ただし、物語は史実とは一部異なる部分がある)。 |
医学への支援 | 梧陵はさまざまな社会事業を手がけたが、とくに医学への支援を厚く行っている。梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎である。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎(三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。なお、西洋種痘所が焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付している。 |
逸話 | 梧陵らが創設した耐久舎の伝統は、現在の耐久高校や耐久中学校に受け継がれている。当時の耐久高校は(校長は寳山良雄)、国内に留まらず韓国等からの留学生も受け入れる等革新的な校風であったようで、文部大臣・小松原英太郎や伊藤博文の補佐を勤めたイェール大学教授・ジョージ・トランブル・ラッド(外国人として初めて旭日勲章を授かる)らの訪問を受けた。ラッドは、当時の広村を訪れた紀行文等を記した『日本の稀日』を1910年(実際の訪問は1907年)にアメリカで出版している。 |
JIN-仁-の他の登場キャラクター
JIN-仁-の感想
仁とは思いやり・いつくしみのこと
もしかしたら医者になれるもしかしたら、自分も医者になれるんじゃないだろうか…とこの作品を見ると思う。単純に作品に感銘を受けて、医者になりたい!と思った人もいるかもしれないが、私の場合は、医者に憧れるという意味ではなくて、「あら、医者って誰でもなれるんじゃない?」と思ってしまったのだ。これはちょっとした開眼である。現代のシステム上、医者になるには、猛勉強をして大学を出たり資格を得たり、そのために時間とお金を掛けなくてはならない。けれど、このドラマを見ていると、実はそのシステムが無くても医者になることは出来るのだ…と、今さらながらにそんな当たり前のことに気づいた。医者になるためには、医学を学べばいい。医学の知識と技術を手に入れれば、人を助けることができる。人命を助けられれば「医者」というのであれば。医者になるには、資格や免許の壁を頭に浮かべてしまうが、そもそもは先人たちの知恵を受け継ぐもの...この感想を読む