等身大で見る青い花
レズビアンが見る青い花
最初に言うと、私はレズビアンです!
百合漫画をリアルな目線で見られる立ち位置にいる私が、人生の中で一番と思える漫画であるこの作品について語っていきたい。
作品の世界観について
私の知ってる百合漫画は登場人物のほとんどが女の子、むしろ男の存在などその世界に居ないかのように影がない、影が薄いということが多い。どうやって産まれているのか謎だ。
だけどこの漫画は
『百合のほうが少ない』
という世界観!!!
リ ア ル な 日常の中の百合! が描かれている。
今でこそ百合漫画の流行は『社会人百合』という現実的な世界観の百合だが、青い花が連載されていた当時はまだ百合漫画自体があまり流行っていなかったと思う。(筆者の感覚なので確かな数字は出せないが)
男女のカップルが多い中で主人公同士がハッピーエンドを迎える、
それまでの話が
『親友』
であるがゆえに起こる切なさともどかしさを本当に上手に表現した作品だと思う。
舞台
舞台が女子高なのは王道だが、その中でもやはり男女の恋愛がスタンダードな世界観の中で繰り広げられる百合物語・・・。
しかし百合だけでなく、メインストーリーには男女の恋愛のストーリーも組まれている。それがまた切なさの描写に拍車をかけていると思う。
『百合』というのは学生時代の一時の気の迷い、同性への憧れ、尊敬、狭い箱の中で始まる甘酸っぱいストーリーが多いように思う。この漫画はおまけの番外編でこそファンタジーのように同性愛者が多いけれど・・・(笑)でも本編はリアルな比率!!
例を挙げると、
・ふみと杉本先輩は失恋の傷の舐め合い
・京子と杉本先輩は同姓の先輩への憧れと逃避
・日向子さんと織江さんは所謂『成功例』
として描かれていて、同じ百合でも作品の中で様々な関係性が平行しているのが、この作者の上手い描き方だと思う。
その中でもふみとあきはスタンダードな
『友情からの恋愛』
だが、王道であり一番切ないパターンのストーリー!!
その切ない描写が、リアルな同性愛を経験している者に刺さると私は思っている。
同姓だからこそ
冒頭にも書いたが、私この記事を書いている筆者である私自身レズビアンであり百合漫画が好きなオタクである。その私が読んだ中でこの青い花が一番の百合漫画だ。
まず評価したいのは感情の描写。
ポエムが多いと思われるが実際共感することがとても多い。
その中でも、ストレートだが一番共感して心に残っているセリフが「好きな人には触れたい。キスをしたいし、抱きしめたいと思う」である。
このセリフ、一見普通に見えると思うが、この漫画が『リアルな百合漫画』であることを考えると非常に切なく身に詰まるセリフなのだ。
なぜかというと、この漫画の世界観は『リアル』である。
つまり、『同性愛が異端』の世界!!
好きな人には触れたい、キスをしたいし抱きしめたい、『だけど』相手が同姓で、同じ女の子で、親友なんだ。これは実際に近い相手を好きになったことがある人なら半分くらい共感できる感情なのだと思う。
しかし、ここに『同姓』という壁が立ちはだかる!
男女であればキスをしたり抱きしめたとき、相手が自分を好きな可能性が同性愛よりも多い。
その世界観の中でのセリフは胸が締め付けられるほどに切なく、何度も読み返してはため息を吐いてしまう。
そしてこのセリフには、個人的に続きがあると思っている。
「好きな人には触れたい。キスをしたいし、抱きしめたいと思う。だけど、あの子は女の子だから、友達だから、できない」
相手が女の子であるというだけで、そんな当たり前の感情が異性愛の人たちよりも制御されてしまう。その苦しさが、私は読んでいて一番心に刺さった。
友情と恋愛の違い
次に心に残っているセリフで
「友達になってすこしずつ知ってもらえたら、それで好きになってもらえるかはまた別の話」がある。
このセリフは男性から女性への告白がきっかけで語られるモノローグだが、これがまた百合漫画としての的を射ている。これはふみがあきらから別れを告げられたことに対する比喩で語られるモノローグなのだ。彼女たちは一番の親友だった。
・・・だけど、付き合い続けることができなかった。
あきらがふみを『好き』になれなかったから。友達で、お互いのことを知っていっていたはずなのに、好きになって貰えなかった。人の気持ちの複雑さと、どうにもならないやるせなさがふみの表情から現れている。実際、筆者にも経験がある。友達から付き合いを始めたけれど、好きにはなって貰えなかった。多分、こういった同性愛者の体験は多いと思う。
更に女性同士になると、女性同士は男性同士よりもスキンシップが激しかったり距離感が近かったりする。その分、この子とならいいかな、と軽い気持ちで告白を受け入れることもある。これはファンタジーではなくリアルでよくある事だと私は思う。
あきらの場合はそれに加えて恋愛をしたことがないのも相俟って、ふみの真剣な告白をあきらなりの真剣な気持ちで受け入れた。
ふみは自分と同じ気持ちになってほしいけど、あきらは最初から違った。
これが友達と恋人の明確な感情の違い。心の中に友情の気持ちしかないのに恋人のような気持ちを抱こうとすると違和感を覚えてしまう・・・。
その違和感が塵のように積もって、違和感に耐え切れなくなり別れを切り出した・・・。友達としても恋人としてもお互いのことをよく知っていたつもりだったのに、好きになって貰えるかは、別の話だったのだ。その伏線の回収に、私はまたそのシーンを何度も読み返してしまう。
あきらの感情について
この作品においてふみの感情はとてもわかりやすく描かれている。しかし、あきらの感情については読者が読み取る部分が多いように思う。
8巻の終わり(恋心を自覚する)までのあきらのふみに対する感情は、『無意識の恋愛感情』だったのだと思う。だけどあきらは自分でも言っていたように子供であり、まだ恋を『知らない』状態だったこともあり、その感情がどうしても『友情』の域を脱しなかったのだ。
知らないものを知るには、教わるか覚えるしかない。
今までふみの一番は自分だとわかっていたから自覚ができなかったが、大学で離れたことにより嫉妬で自覚することができる。恋を自覚するには嫉妬が一番効果的なのは本当だと思う。
友情での嫉妬も存在するが、あきらの嫉妬が恋だと自覚した理由は卒業式の終わりに海でかけた『呪い』のせいである。
あの呪いは本当に、
ほんっとうに!!
よくできた呪いで、ふみとあきらの二人を縛り付ける言葉の鎖だったと思う。
自分を好きだと思っていた人がほかの人を好きになってしまうかも知れないという可能性は、あきらを無意識に焦らせてしまったのだ。
あきらは明るく素直なキャラクターだが、それは逆に言えば何も知らない無垢な子供と同じだということ。
子供にものを覚えさせるには学ばせるしかない。
周りの恋愛経験を聞きながら自分の気持ちをゆっくりと自覚していったあきらに対して、ふみは幼いころから従妹に対して明確な恋愛感情を持っていた。
ふみはモノローグなどで感情が分かりやすいが、あきらは自覚していないことが多いため読み取るしかない、この二人の対比も何度も読み返して気付いた部分だ。
ちなみに、あきらが無意識なりにもふみへの気持ちが恋愛感情になっていたのは、上田さんと出会ったときに「少しふみに似ている」と思ったときだと思う。
番外編での日向子さんと織江さんの話で出てくるセリフの「実は大して似てないの、見るものすべてが織江さんに見えてたのよね」が伏線になっていると思われる。日向子さんはそれをちゃんと自覚していたが、あきらはまだ恋を知らない状態だからどうして似てると思ったのか理由は明言されていないのだと思う。
しかしここでミソなのがあきらの感情はすべて『無意識』であるというところだ。あきらにもわかっていないから、読者がこれは・・・と気付く事しかできない。
何度読み返しても、私の人生の中で一番と言っていいほどに好きな漫画です!!
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)