アーチャーと衛宮士郎と正義の味方について
正義の味方
Fate/staynightという原作のゲーム作品には、三種類のストーリーがある。その内の一つ、UNLIMITED BLADE WORKS、通称UBWルートと呼ばれるストーリーをアニメーションの形で描いたのが本作だ。このUBWルートにおいて基点になるのは二人のキャラクター、主人公である衛宮士郎とサーヴァントであるアーチャーだ。そして、彼らが目指している、あるいは到達しその役割を為す、正義の味方という思想が本作のテーマとなる。衛宮士郎が目指す正義の味方という理想とアーチャーが実際に為してきた正義の味方という存在の現実。同じ概念を基盤にしながら、決して相容れず、聖杯戦争という舞台の中で衝突する二人の在り方とその結末こそがこの物語の根幹だ。ゆえにこそ、彼らにとっての正義の味方とは何なのか、その辺りをまず理解することが、この物語をより楽しむことに繋がるだろう。
理想
さて、まず主人公である衛宮士郎にとっての正義の味方とは何であるか。それは、救われぬ者の全てを救い皆を幸福に導くものなのだろう。その理想の発端は、衛宮士郎が幼少時に巻き込まれた、物語の舞台である冬木市で起こった大火災にある。衛宮士郎以外、被災した誰もが焼け死んだ大災害の中で、彼だけが義父である衛宮切嗣に助けられている。決して助かるはずの無い状況にある自分を見事に救い出した衛宮切嗣、そんな奇跡と、その時に浮かべていた彼の笑顔に衛宮士郎は憧憬と羨望を抱いた。そして、衛宮切嗣が今際の際にこぼした、正義の味方になりたかった、というかつての義父の理想を、衛宮士郎は自身が継ぐと決めている。衛宮士郎の中で、自分を救い上げた義父の姿と、正義の味方という理想は混在していると見受けられる。かつての義父のように、かつての自分のような救われぬはずの誰かを救い上げる。そんな奇跡を、救われない全ての者に与え、全ての者が幸福であれる、衛宮士郎は本気で、そんな夢物語を理想として目指している。
そして衛宮士郎の中で、その理想を叶えることは絶対なさねばならないことだ。衛宮士郎は大火災に被災したことによって、自分だけが生き残ってしまったという罪悪感に苛まれている。現実的な病名で言えば、サバイバーズ・ギルトと呼ばれる心的外傷ストレス障害の一種だろうか。作中における衛宮士郎の無謀としか思えない行動の起因もおそらくはここだろう。ともあれ、衛宮士郎は大火災の記憶から、自分自身の人生の価値や命の大切さを正常に認められず、逆に助かることができなかった自分以外の全ての命に報いることをしなければいけないという強迫観念にかられている。つまりは、大火災という地獄を経験した自分が、正義の味方になることで、多くの命を救い皆を幸福に導くことができたのならば、あの時失われてしまった多くの命に意味を持たせることができる、といった論法か。ゆえにこそ、衛宮士郎は正義の味方になりたいのではなく、ならなければならない。そういった在り方は、なるほど理想というよりもはや一種の呪いに近い。衛宮士郎にとって正義の味方とは全てを救うものであり、彼にとっての唯一無二の道であるということだろう。
現実
さて、ではアーチャー、すなわち未来で英霊となった衛宮士郎にとって正義の味方とは何であろうか。それは、人類を守るものだろう。まずアーチャーについて、彼は他のサーヴァントたちのように神話や伝説にその名を刻んだ英霊と呼ばれる存在とは出典が異なっている。彼は人類という群体によって生じる集合無意識、抑止力あるいはアラヤと呼ばれる存在と契約した守護者と呼ばれる存在だ。アラヤの存在意義は生存、すなわち人類という群体の絶滅を避けることにある。守護者とはその目的の実行役だ。人類という種の存在するあらゆる時代において、戦争やテロなど人類が絶滅しうるとアラヤが感知すると、守護者を時空を超えてその場に派遣する。そして守護者は人類の絶滅する要因を排除する、という訳だ。なるほど、人類を守る者、となれば、それこそヒーロー、正義の味方に他ならない。衛宮士郎は見事、かつての理想を叶え、正義の味方となることができた訳だ。だがしかし、実際に正義の味方となったアーチャーの感想、苦悩は作中にあった通りだ。
なぜか、それはつまるところ、現実に正義の味方なろうとも、全ての人間を救うなんてことはできないからだ。守護者の実態は、人類の絶滅に加担しうる全ての人間の殺害だ。結局人類の生存欲求の総体でしかないアラヤに感情はなく、当然その手足となる守護者の自由意志など認めはしない。執行の対象になった人間の理想や事情、感情の全てを無視し、とにかく殺して世界から排除する。つまり、守護者として正義の味方となった衛宮士郎は、極論、ただの人殺しに成り下がっている。ここで、上述した、衛宮士郎の持つ理想を思い返してみる。衛宮士郎の理想、彼にとっての正義の味方とはすなわち、救われぬ者を救い皆を幸福に導くことだ。では、現実に守護者となり正義の味方となった衛宮士郎はその理想を体現できているか、いや、いるはずもない。守護者の在り方とはつまり、十を生かす為に、邪魔となる一を消すこと。この時点で、たとえ十の幸福を守れたとしても、消した一の側の幸福を奪っている。また、例えば人類の絶滅の要因が戦争の勃発やテロリズムの発生としよう。守護者は、それらに加担する全ての人間を殺しつくす。しかし、そこに加担した人間は必ずとも悪たりえるだろうか。単純な外道ではないかもしれない、地獄のような生活環境を打破する為、あるいはそれ以外に幸福を勝ち得る手段を見つけられなかった人間かもしれない。止むに止まれず、仕方なく行動した結果、殺されざるを得なくなった者は、きっと存在したはずだ。さて、衛宮士郎がかつて救いたいと願った、そんな決して救われない者達に、正義の味方となった彼は一体何をしているのだろうか。結局のところ、かつての理想であったはずの正義の味方となった衛宮士郎は、かつての理想をひたすら自分で裏切り続ける羽目に陥っている訳だ。アーチャーにとっての正義の味方とはすなわち、秩序の体現者。人類を守るという名目の為に、数多くの人間を殺戮する道具でしかないのだろう。
願い
作中におけるアーチャーの台詞や行動は、全て正しい。たとえ、突き詰めれば手段が殺人でしかなかろうと、人類を守り続けた彼は、間違いなく正義の味方に他ならない。そんな彼から見れば、衛宮士郎の在り方は酷く歪で、おぞましいものでしかないだろう。現実と理想が一致していないことを自覚しておらず、ましてその間違いに一切気づかぬまま、強迫観念にかられて理想に向けて邁進する姿は、直視していられるものでは無いはずだ。そして、いずれ間違えたまま理想に辿り着き、自分と同じものになり、自分で自分の理想を裏切りながら、ただひたすらに人を殺し続ける、そんな大馬鹿を生かしておけるはずもない。ゆえにこそ、アーチャーの殺意やそこから生じる言葉や行動も、何もかもが正当なものだ。
対する衛宮士郎は、ほぼ全てが間違いだ。正義の味方の現実を語られ、見せられてもなお、それを認めない。彼の持つ理想ですら、義父から借り受けたものでしかない。かつての記憶から、自分自身の存在を正しく認められない彼は、そもそも人間として破綻している。真人間なれない衛宮士郎が、他人の理想で、現実を認めずに何を言おうが、どう行動しようが、その全ては偽物なのだろう。正しく自身から生じた夢でなければ中身は宿らない。そうでなくてはならない、と追い詰められなくては追いかけられないものは、正しい理想の在り方とも呼べない。それでも、衛宮士郎が唯一持っている正しさがある。その理想の形だ。衛宮士郎の理想とは言い方を変えれば、誰もが幸せであって欲しいという願いだ。その理想の発端や、理想を持つ衛宮士郎自身が何を間違っていようとも、その願いそのものは悪では無く、叶えるべきものであり、それ願い自体は間違いには決してなりえない。結局のところ、何もかもが正しいはずのアーチャー自身が、最後の最後にその願いすら間違いだったと否定しきれなかったことこそが彼の敗因であり、衛宮士郎の勝因だったのだろう。
未来
作中での衛宮士郎とアーチャーの激突の結末は、衛宮士郎の勝利で幕を閉じた。衛宮士郎が勝利した以上、彼はこれからも正義の味方、救われぬ者を救い、皆を幸福でするという理想を目指して歩き続けるのだろう。ではその末路は、アーチャーと同じものになるのだろうか。無粋な話だが、設定的にそうはならない。作中世界では平行世界論が採用されており、アーチャーはかつてのこの作中の衛宮士郎と全く同じ経験をしてきているわけではない。当然、アーチャーとの激突を経験した衛宮士郎は、アーチャーとは異なる人生を歩むこととなる。結局、正義の味方として多数の幸福を守るために小数を殺すのかもしれないし、あるいは理想を体現する手段を見つけるのかもしれない。どうあれ、衛宮士郎は正義の味方にはなるはずだ。アーチャーのように現実や理想に裏切られたとしても、彼は唯一無二のその道を歩むしかないのだから。
そうやって、衛宮士郎が辿る未来と、その結末を夢想するのも、この作品を見終えた後の楽しみ方の一つと言えるだろう。
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