豪胆な戦国武士・「佐々成政」
豪胆な戦国武士・「佐々成政」 原作者の郡順史(こおり じゅんし)は、葉隠の研究家としても知られており、葉隠、武士、サムライ達に関する多数の著書を出している。 著作の「佐々成政」は戦国期の猛将としても知られ、戦国時代の代表的なサムライである。 作者70歳を過ぎた高齢期に著作、出版している。 戦国期の佐々成政(さっさなりまさ)は、織田信長により越中・富山54万石に封じられた。 成政は、富山城を改修し、城下の街並み整備を行うが、信長本能寺での死後は、勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉に対して織田家再興をはかるべしと遠州浜松の家康に会って進言しようとする。 これは、西に前田家、東に上杉家、南は秀吉の勢力範囲と全て敵の領地であったが為、冬季ながら立山黒部の山岳地を越えるべく決断するのである。 成政一行は危険と苦難の連続、激しい雪崩に襲われながらも、とにかく立山を越える。 所謂、「サラサラ越え」(現在のザラ峠)で、家康の浜松城に到着するのである。 だが、家康は既に秀吉と気脈を通じていたため、説得は拒否され失敗に終わるのである、無念なり・・!!成政。 そして、事もあろうに彼は、再び同じ道を引返したのであった。 成政は後に秀吉の軍門に下り、九州平定で功をあげたことから肥後国一国を与えられたが、治安の失政により切腹に及んでいる。 享年53歳であった。 小生は、山を趣味にもつ一人であり、室堂や立山、剣岳へは何度か足跡を残したが、これらを含めて登山地図を見ながら実際のルートを探索して見た。 それによると、一行は先ず越中・岩峅寺を通り千寿ガ原、そこを流れる常願寺川の河岸から立山温泉、源流部の湯川谷から鷲岳北方のザラ峠(2348m)に到る。 次に黒部谷の中ノ谷から刈安峠を越えて黒部川の河岸の平小屋へ、黒部川(現、黒部湖南部)を渡り、核心部である針ノ木岳の針ノ木谷、針ノ木峠、籠川谷(日本三大雪渓の一つ・針ノ木大雪渓)を経て扇沢、大町へ到っている。 この峠越えは、近年発見された徳川家の著物・「武功夜話」にも詳しく記されていると云う。 因みに、テレビ等でもお馴染みであった、かっての「連合赤軍あさま山荘事件」のリーダー・佐々 淳行氏(さっさあつゆき)は、佐々成政の系譜、子孫に当たるという。
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