太田蘭三「脱獄山脈」で伝えたかった真実
作品の概要
太田蘭三氏の山岳推理小説「脱獄山脈」はTBSのドラマにもなった人気のある初期の作品で、作者のエネルギーが随所に迸(ほとばし)っている大作です。
何度読み返しても設定や筋書きが面白く、主人公の一刀猛の人間性豊かな人柄や他の3人の脱獄犯の少し変わった性格の描写が楽しい作品です。
府中刑務所に収監されていた元警察官の受刑者が3人の囚人と共に脱獄をして奥多摩から奥秩父さらに北アルプスを縦断して日本海の不親知海岸(おやしらず)まで縦走し冤罪を晴らそうとした物語です。
このレビューでは小説内の名場面の感想を中心に、作者太田蘭三氏が山岳小説独特の状況描写ついても感想を記してゆきます。
脱獄の動機
「脱獄山脈」の小説全体に流れるテーマは主人公・一刀猛や妹や元同僚の冤罪を晴らしたいという執念です。
中でも妹の夕子と警察学校の同期で親友の相馬は一刀の無実を信じていました。
両親を早くに失くした一刀と夕子は、この世で信じられるお互いにたった一人の家族。
真に互いを分身の様に思っていたのですね。
兄妹愛という隠れたテーマも太田蘭三氏はこの小説に込めたかったのだと推測します。
相馬は一刀にとって職場で唯一腹を割って話が出来る仲間です。
そして、夕子の恋人として一刀が認めた男でもありました。
脱獄した一刀を追って、奥多摩や奥秩父そして北アルプスの山脈を追うことを命令された相馬の切ない思いが何度も小説の中に出て来て心が締め付けられます。
主人公の一刀猛は警視庁の元警察官でしたが新宿で飲食店を経営する尾又米吉の妻・伊佐子を金銭のもつれから殺害し、宝石や貴金属類を盗んだ罪で逮捕され裁判で有罪が確定し、府中刑務所に服役中の身でした。
元警察官が殺人の容疑を受けて捕まり刑務所に入ると云う普通考えられない設定に、作者の練りに練った設定を感じ、最後に暴かれる真実がきっと潜んでいるに違いないという期待が湧き上がって来ます。
裁判で一刀はずっと犯行を否認し続けてきましたが、現場で一刀が凶器を手にした決定的な証拠もあって冤罪だという一刀の主張は認められなかったのです。
このあたりでは一刀が誰かにハメられたのかどうかがはっきりしませんでしたので小説全体の展開も読めませんでしたが、ストーリーが進むにつれて闇の部分がみえてきてどんどん謎が明らかになる話の作りになっています。
しかし最初一刀は、弁護士からは刑務所内で無罪を訴え再審を求めても新たな核心となる証拠が見つからなければ、判決を覆すことは難しいと告げられていたのです。
もう無実の一刀には脱獄して真犯人を見つけなければ何も変えることは出来ない!という思いがあったのだと思います。
それに一刀が府中刑務所を脱獄するには冤罪を晴らすという目的の他に、妹の夕子が自分のために危険を冒して真犯人に接触してしまうかも知れないという危惧があったからです。
弁護士と相談しながら真犯人を追っていた夕子が、新潟県の親知らず海岸にいるという真犯人に会いに行くと、一刀は弁護士から接見で聞かされていたのです。
血肉を分けた妹が自分のために妹が危険な目に会っているのではないかと心配した一刀は、脱獄を決意して監獄仲間の岩田と綿密な計画を練り実行しました。
奥多摩から秩父の山稜へ
まず鮮やかに脱獄を果たした場面の描写は、リアリティーがあってドキドキしました。
綿密に計画されて準備してきた脱獄を、一刀と岩田に金井と赤木が加わって4人で実行します。
脱獄が発覚しても捜索が開始されることは想定済みで、刑務官が動き出す時間までも計算済みでした。
たぶん作者は府中刑務所の広さや建物の配置を詳細に把握して小説を書いているのだと実感できる部分がいくつも登場します。
作者太田蘭三氏の凄い取材力に感心させられるのです。
さらに、奥多摩の山林から雲取山を越え奥秩父の瑞牆山を下るまでの脱獄囚4人の山旅に、山の中で自殺しかけて4人に救われた若く美しい女性ハイカー1人が加わり5人になります。
ここにも作者独特のミステリーに彩を加える工夫がなされている設定があります。
山の中で生まれ変わった女性は、一刀や仲間を尊敬しどこまでもついてゆきたい言い出すのです。
山を下りて温泉でくつろぐ5人でしたが、窃盗犯で刑務所の中では女の代役だったアンコの金子由美雄が、瑞牆ロッジで24万程度の現金が入った手さげ金庫から紙幣を盗み、そこから脱獄犯の動向が警察に見えて来ます。
足が着くようなことをしてすぐ捕まると予測させますが、5人はここをタッチの差で切り抜けるのです。
一気にサスペンスの醍醐味を味合わせてくれる場面に切り替わって展開があわただしく感じます。
そしてこの金が逃走資金にもなって一足飛びに舞台は北アルプスの玄関上高地に移ります。
これまでハイカーとして楽しみながら旅を続け、他の登山客とも触れ合い、歌い、冗談を交わしながら進んできた展開が急にテンポを速めます。
警察の警戒が早まって、5人が上高地を訪れた翌日には相原を含む警視庁の刑事がそこを調べ始めているのです。
しかし、再び山の中に入った脱獄犯の動きの情報は途絶えます。
というのは、追っ手の中心にいた相馬刑事が東京に呼び戻されたからです。
相馬は上司から一刀の犯行が実は冤罪かも知れないという情報を得て、そちらの捜査に振り向けられたのです。
この一報で、相馬も俄然活気を取り戻し真犯人の逮捕に向けて動き出します。
相馬頼むぞ!一刀の代わりに真犯人を見つけてくれ!そう声に出るのを押さえて先に進みます。
北アルプス稜線上
もうすでに後立山連峰上の鹿島槍ヶ岳に通じる途中の爺が岳足下にある種池山荘に5人の姿はありました。
正確に言えば一刀の背中の背負子にはもう一人稜線上で置き去りにされた登山者が乗っていました。
作者は、ここで一刀が単なる逃亡者ではなく、正義感を捨てずに持ち続ける男だということを強調して読者をして一刀に共感させたかったのではないかと思います。
天候の急変で稜線上は雷雨が荒れ狂う荒天。
運び込まれた遭難者の件は麓の警察の遭難警備隊に連絡され無事救出されたのですが、救助した登山者の情報も警察に届けられていたのです。
自分たちの居所も知らせてしまう行動を何故一刀たち脱獄犯は取ったのでしょうか?
疑問は残りますが、作者はここに小説の醍醐味を書き加えたかったのだと思います。
追い詰められても元警察官としての一刀の良心を示して置きたかったのではと推測します。
更に太田蘭三氏の筆が躍るのは一行が唐松岳を越え、不帰の嶮と呼ばれる岩稜が聳え立つ難所での事故の様子です。
カニの横這いと名付けられた最も危険な場所で、詐欺で服役中だった赤木が足場を確保して待っていた金井に接触し、金井がバランスを崩して絶壁から転落するのですが、その描写が絶妙なのです。
そのには、不帰の嶮を経験したものでなければ書けない細かい岩の様子の記述があります。
それもただ一遍の登山の経験では決して書けない描写が随所に散りばめられた太田蘭三の取材が窺われる文章なのです。
結局、運よく途中の岩の上に留まり金井は足を折っただけで、一刀によって救い出されて下山できたのですが、病院からの通報により残る4人の逃亡に影を落としてしまいます。
白馬岳を過ぎ三国境まで来たところで、4人は二手に分かれます。
親知らず海岸を目指す一刀と由香里と蓮華温泉に下る岩田・赤木の2つのグループが別れたのです。
岩田たち別動隊は自分たちが捕まって、警察をこっちに誘導することに依って一刀の思いを成就させてやりたいと覚悟していたんじゃないでしょうか。
つまり、陽動作戦です。
不親知海岸
一刀と由香里が親知らず海岸の見える山荘に辿り着いたのはそれから数日後でした。
赤い屋根の山荘に管理人として待ち受けていたのは真犯人・曹光行でした。
まるで一刀が来ることを知っていたかのように曹は、尾又伊佐子を殺した経緯を一刀に聞かせ銃口を向けて物語の終了を宣告しますが最後のその瞬間、隠れていた相馬がすべてを悟って突入し曹は取り押さえられます。
感動の結末でした。
妹の夕子の思いにも応え、親友の相馬が捕物の手柄を立てた最後は推理小説作家の太田蘭三の本領発揮の結末だったと感激しました。
まとめ
太田蘭三作品の最高峰とも称される「脱獄山脈」は、それまでにない脱獄犯の正義を描いた異色作でしたが、TBSのドラマにもなった名作です。
そこには太田蘭三氏の登山経験が存分に生かされていて、しかもさらに足を惜しまない取材の成果が存分に発揮されていた作品「脱獄山脈」でした。
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