生きることに対する深い想いに支えられた眼差しのリアリズム 「サン・ロレンツォの夜」
「8月10日のサン・ロレンツォの日の夜に、愛する人のため、流れ星に願いをすると、それが叶う」というイタリアの伝承をもとに、若い母親が、その夜、子供を寝かしつけながら、自分の子供時代に起こった戦争の話を、語り聞かせる-------。美しく、残酷に、そして、ユーモラスに、戦争が表出される。
1944年、米軍が迫り、独軍が退かない夏。流れ星に願いをかけると叶うと言い伝えられるサン・ロレンツォの夜に、母親が子供を寝かしつけながら、その数日間に見たことを語る。戦争中の話の形式として、よくあるが、当時6歳の彼女は、決して悲劇性に包まれていない。
独軍とファシストが、米軍の進路上にある村々を爆破し、村民を皆殺しにしながら撤退しようとしていることに感づいた人々が、米軍を探しながら逃げるという真っ只中で、彼女は珍しい遠足のような非日常の興奮に酔っているようなのだ。
彼女たちを悲劇だと思うのは、歴史を知る我々であって、悲劇が日常ならば、それが本当なのかも知れない。大人たちも必死でありながら、どこかユーモラスな感じがあるのだ。彼らは、悲惨を当然のこととして享受しながら泣き、笑い、疲れる。それが余計に私の胸を打つのかも知れない。
語り部の少女は、主人公ではない。子供を宿して結婚する二人。その式が終わると、街から戻った友人に会う。友人の家には爆破の印が付けられ、妹はこれで家を出られると喜んでいる------次々と視点が変わりながら、村の人々の各々が持つ長い過去と少し先の未来を暗示していくのだ。その紹介と展開には、まるで無理や押し付けがましさがなく、どの人も最後まで過不足なく描かれていく。
プロの職業俳優は二人だけで、ロケ先の人々が家族ぐるみで演じているという村人を、あくまで素直なカット割りで確かな距離を置いて、じっと見続けるカメラ・アイが冷たくて、暖かい。そして、主人公はいない。パオロ・ダヴィアーニとヴィットリオ・タヴィアーニの主人公は、ここでも土地とそこに生活することだ。映画に主人公が必要だというのは幻想、あるいは我々のカテゴリーの産物に過ぎないのかも知れない。
この大きく優しい素朴な映画には、3つの力のモンタージュがある。シシリー生まれの娘が誤って米兵に撃たれた直後の娘とシシリー兵の笑顔の幻想。レジスタンスの村で人々が名前を変えるという時、恥ずかし気に"レクイエム"と名乗る青年が、教会で朗々と歌う想念。村に残った人々と身重の妻が教会で爆死したことを思い、"ジョバンニ"と生まれてくる子に付けようとした名前を名乗る男の回想。
これらは、30年間慕っていた貴婦人に青年のように照れながら思いを打ち明けた老リーダーが、翌日の解放の雨の朝、帰るのを延ばそうと叫び、3時間そこに居て、帰って来たというラストと共に、生きることに対する深い想いに支えられた眼差しのリアリズムなのです。
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