死の恐怖に耐えて心の奥底で守り通さねばならぬ掟を守り通した男を、クールに冷えたロマンチシズムで描いた秀作 「サムライ」 - サムライの感想

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死の恐怖に耐えて心の奥底で守り通さねばならぬ掟を守り通した男を、クールに冷えたロマンチシズムで描いた秀作 「サムライ」

4.54.5
映像
5.0
脚本
4.5
キャスト
5.0
音楽
4.5
演出
5.0

ノウブレス・オブリージという言葉があります。貴族には貴族としての義務がある、といった誇りから出た言葉です。今では、ひとつの身分に伴う責務といった意味にも使われます。明治32年新渡戸稲造博士は、アメリカで、西欧に日本の道徳と思想を知らせようと、名著「武士道」を著した時、この武士道を「サムライ階級のノウブレス・オブリージである」と定義しました。

フランスのフィルム・ノワールの鬼才・ジャン=ピエール・メルヴィル監督が、アラン・ドロン主演で、若いパリの殺し屋の末路を映画化しようとしたとき、先ず頭に浮かんだのは、新渡戸稲造博士のこの武士道の定義だったのではないかと思う。

メルヴィル監督は、この映画の題名を「ル・サムライ」とつけた。フリーランスの人殺し専門家のドラマだ。殺し屋には一匹狼だろうと常に「殺し」に伴うノウブレス・オブリージがある。自分ひとり、死の恐怖に耐えて心の奥底で守り通さねばならぬ掟がある。

それを守り通した男--------他の誰にでもなく自分自身に対して、ばかばかしいほど心の責任を守り通した男。メルヴィル監督は、サムライという日本の言葉で、実は日本の侍とは職業も道徳律も思想もまるで違うが、自らへの厳格さだけは等しかったそんな男の孤独を、表現しようとしたのだ。

この主人公のジェフ・コステロ(アラン・ドロン)には、係累がない。時たま訪れるコールガールの情婦(ナタリー・ドロン)はある。が、二人の間に、性と愛はあっても、倚りかかりはない。彼女は、訪れた彼が犯行のアリバイ作りを依頼するだけで、「やっぱりあなた、私を必要としてくれてるのね」と、いじらしくそんな確認を求めたがる女だ。それほどに彼は、女にも自分を傾けない。

彼が唯一つ、離れがたい分身として愛を投げかけているもの、それは、殺風景な彼の一室で鳴く一羽の四十雀にすぎない。これは、そんな男、完全に孤独な-------金でだけ人を殺し、全ての他人を疑うことしかしない男のドラマなのだ。

人間から完全に孤立している無係累のこの男に、言葉はない。饒舌はあり得ない。彼は、黙ってアリバイ工作を積み重ね、黙って契約通り人を殺す。キャバレーの経営者を射殺した彼の犯行は、店の黒人女のピアノ弾き(カティ・ロジェ)に目撃されてしまった。客の数人にも当然、顔を見られてしまった。彼は検束される。彼は、黙って、警部(フランソワ・ペリエ)の面通しを受ける。

警部がしゃべればしゃべるほど、彼は沈黙に殻を閉ざす。彼は黙って尾行を受け、黙って追跡陣を撒き、黙ってスポンサーから報酬を受けようとし-------突如、相手が躍りかかって殺そうとしかかると、黙ってひとり銃で受けた傷を治療しながら、黙々と復讐の探索に立ち上がる。手傷を負った獣のように。

それも掟だ。ジャングルの野獣のノウブレス・オブリージなのだ。復讐はむろん沈黙のうちに行われる。しかも彼は自らの掟として、先に警察で彼を助けてくれた黒いピアニストにも、次の銃口を向けなければならぬ。彼女は、敵のまわし者であったから-------。しかし、黙って彼女に突きつけられた彼の短銃は、実は、全ての雄弁、彼の真の叫びを、弾倉の中にだけ隠しているのだ。

そして、私たちがそれを知るのは、彼が人殺しの掟通り、警官隊に黙って射殺された後なのだ。生よりも、この男は、大切にした自分の突き進まねばならぬ破滅の道を、事挙げせず貫き通すことを。この映画は、そういう"サムライ"の、ドラマなのです。

主演のアラン・ドロンが、この自分の掟に生きた寡黙な野獣を、目を見張るばかりの引き締まり方で、創り上げている、沈黙で-------。彼の沈黙の雰囲気が、どんなに素晴らしいものか。私たちは、「太陽がいっぱい」で知っている。引き延ばし機を買いこみ、ホテルで黙々と他人のサインを盗みとった、あの見事な動作の集中感。

そして、あてもなく、街の魚市場を歩きまわった、あのうずくような、青春の彷徨感。彼の暗く太い眉、虚無的な眼差し、そげた頬の白さは、沈黙の動作でこそ妖しい燐のように光り出すのだ。私たちは、それを知っている。だが、ハリウッドは、それを知らなかった。そして、メルヴィル監督は、故国フランスへ失意のうちに帰ってきた彼に、最高の魅惑で、再びそれを甦えらせたのだ。

映画の冒頭、ベッドに長々と横たわって、煙草の煙を宙にあげている-------その寝姿の沈黙が、すでに、冷え冷えとしたムードを醸し出していて素晴らしい。それから、黙って起き上がる。小鳥に餌を与える。ドアの傍の鏡の前で、ダスタコートをまとい、襟を立てる。ソフトをかぶり、静かに、つばを横一文字に揃える。その小さな一挙動のキザ。だが、それがキザではないのだ。パリ市中へ重大な仕事に出る青年紳士の、本能的なノウブレス・オブリージのしぐさになっている。実に切れ味の鋭い凄みだ。

殺し屋は、攻撃の職業か。そうではないと思う。むしろそれは、たえざる防御。不断の虚無と猜疑の無明地獄なのだ。人生に何かのプラスを期待する男が、こんなデスペレイトな職業を選びとるはずがない。アラン・ドロンの殺し屋も、例えば敵と格闘する、といったダイナミックな激動の敏捷さより、さらに味が出るのは、このニヒルな男が生の防御本能で敵に身構える、その瞬間の緊張の表現だ。

例えば、手傷を抱え込んだまま部屋へ転げ込み、ひとり不自由に片手で傷を洗い、ガーゼを傷口に当てていく。その猫が毛をなめるような動作。生きる助けを、全て自分にしか求めることの出来ない男の、痛々しい緊張。そして、特に素晴らしいのは、彼の外出中、警察が部屋へ取り付けた盗聴器を、帰宅直後、直感的な犯罪者の嗅覚で見つけ出してしまう-------長い長い無言のシーンの演技だ。

小鳥の騒ぎ方の、ほんの微妙な異常さ。瞬間、彼の全身は、ガイガーカウンターのように反応し、凝集する。部屋の隅々が、一点の見逃しもなく、一寸のたるみやムダもなく、レーダーとなった全身で照射されるのだ。周囲は、いつも敵。全てが敵。瞬時の油断も許されず、全神経をとがらせなくてはすごせぬ生-------。

アラン・ドロンは、それを、目ひとつ動かさぬ虚無的な落ち着きで演じきるのだ。その抑制に、成熟が感じとれる。若さ以外の渋さが、このアラン・ドロンという世紀の二枚目スターに加わってきているのだ。私が、「サムライ」のアラン・ドロンに感心したのは、この彼にそれまで強かった子供っぽさがすっかり消え去ったことだ。それに比べると、情婦を演じるナタリー・ドロンは、演技がまだ演技になっていない幼さ、ひどく魅力は薄い。むしろ、ベネズエラ出身の黒いピアニスト役のカティ・ロジェの方が、サヴェージな美貌、弾力的な表情や肢体の動き、これは予想外の収穫とも言える魅惑だ。

アラン・ドロンとのいいバランスを保ちつつ、大人のドラマを形作っていると思う。この謎の女、ギャングの情婦も、全編ほとんどが沈黙だ。沈黙の牝豹。それがドロンの、沈黙の白い狼と、「サムライ」の"人の世の底冷え"を決定するのだと思う。

この映画は非常にクールだ。そして、さらにもっと冷えたムードを持っている映画だと思う。これは、ジャン=ピエール・メルヴィル監督が決定した、硬質なと言っても金属質ではない文体に支えられたムードなのだと思う。私は、文体を持たない演出は信用しない。このメルヴィル監督の冷たさは、信頼出来るのだ。

メルヴィル監督は私にとっては、一つの幻影に近い存在だった。「いぬ」「ギャング」というフィルム・ノワールの傑作はありますが、それよりも、この監督は、第二次世界大戦直後の無名時代に、抵抗文学の代表作であるヴェルコールの「海の沈黙」を演出したことで、その名を焼き付けさせました。

そして、フランスにヌーヴェル・ヴァーグの潮流が起こった後、この人の名は、例えば「シベールの日曜日」のブールギニョン、「日曜日には埋葬しない」のドラシュ、そしてあの名カメラマンのアンリ・ドカエらを薫陶したリーダーとして、知られていました。「サムライ」は、この彼の本質を、初めて私が出会い、納得した作品なのです。

「サムライ」の演出が決定していくイメージは、徹底的な細部の凝視、そして抑制の切れ味です。アンリ・ドカエのカメラは、最大限の克明さで、殺し屋ジェフの行動に視線を集中するのです。ドロンは時に、役を創造する主体者である以上に、演出者から凝視される客体にさえ変じてしまう。そして、メルヴィル監督は、その凝視のカメラを、決して曲線の弛みで引きずらないのです。常に、点と線、硬い氷片のような鋭角と直進で、断ち切るのです。

水際だった映像演出の切り口は、パリ外景のドラマに表われています。警察で一夜を明かした早春の朝。ドロンは、環状線の陸橋駅に向かう。無人の駅の、階段やフォームを歩む彼の、長い長い凝視。駅のすすけた高い天井、鉄の柵、その全てが、パリに生きてしかもこの街からは隔絶された青年の孤立を、浮かび上がらせるのです。

さらにきめの細かな映像の目のつみ方は、地下鉄の追っかけのシーンで全開になります。ジェフは、東の場末、リラの門あたりの部屋を出、都心に近いシテへ、地下鉄を乗り継ぎます。開始される警察の尾行。ジェフは、乗客のそぶりで、それと気付きます。電車を、発射寸前に飛び降り、フォームを抜け、乗り換え通路を走りエスカレーターを跳び越え、さらにフォームをかいくぐって別の線区へ飛び乗る彼。

追う女刑事。パリの地下鉄とその駅は、巨大な迷路の複合だ。迷路であると同時に、それは計算されつくした図形の論理の花だ。メルヴィル監督は、それを映像化する。半自動の電車のドア。フォームに吊るされた青地に白抜きの乗り換え口や出口の鉄扉。その全てが、ここでは市民生活の証として、ものを言うことで、生活には溶け込めない主人公の"孤独のドラマ"を、体位的にオブリガートし、そして導くのです。

フランス映画得意の地下鉄の描写でも、これほどの充実はフランジュの「白い少女」以来ではないかと思えるほどの、濃密な質感だ。しかも、メルヴィル監督は、ドロンの全動作をそこで細かく凝視しながら、濡れた余計な装飾のショットは、一片も加えず抑制が効いています。そして、それはリアリズムとは呼べない演出なのです。

細部の濃密なリアリティは、一切のゆるみや虚飾を削り落とすことで、却って、一種の凍った抒情さえ生んでしまうのです。私は、このメルヴィル監督の演出の根本に、逆に、ある種のロマンチシズムを感じるのです。メルヴィル監督が「サムライ」で描いたのは、実はかねて彼の本質に潜んでいたその特質の、初めての煌きではなかったのか。早春の氷、とでも言いたい、冷たさと熱のその融合の-------。

「サムライ」の、この冷えたロマンチシズムを具象化させているもう一つの支柱-------それはカメラ、特にその色感だと思う。アンリ・ドカエとジャン・シャルバンが、その色を創っている。それは、ひと言でいって、氷雨の黄昏の街の色だと思う。もちろん、ドラマの中には、早春の陽もこぼれる。漆黒の闇もあり、頽廃のキャバレーの原色も溢れる。

しかし、全編を通して、映像が観ている私たちに囁くのは、灰色の泥絵具を夕暮れの雨でにじませた、デスペレイトな冷たいほの暗さなのだ。言うまでもなくそれは、ジェフ自身の心の襞。巷に雨の降るごとくわが心にも降り注ぐ閉塞的な"絶望の色"なのだ。

他人のシトロエンを盗んで、ジェフが場末の修理屋に、ナンバープレートをつけ換えに走る時、パリの空は、たえず薄日の一日を、夕闇の中へ落そうとする。すすけた木の塀の連なり。伊達で粋な、彼の服装や車とは、対照的でありすぎるその風景の不毛。カメラはその対照に、決して英雄ではあり得ない殺し屋の、現在と末路を色彩化するのです。

映画の前半、第一の犯行が終わるまで、ジェフはバーバリーのダスターをまとっている。褐色は、攻撃の色だ。しかし、追われる彼となった時、オーバーは濃紺に変わる。それは、もはや攻撃の色ではなく、自らの葬祭に参列する男の、礼装の色なのだ。

殺し屋としてのノウブレス・オブリージ。映像は、冷たい灰色の上に、その濃紺をくっきりと点出する。遂に、春の陽はわがものに出来なかった一人の疎外者の、精一杯の威厳。そして、映像のこの色彩は、非情の文体の底で、威厳に隠された"孤独なサムライ"の痛ましさ-------歪みが歪みのまま破滅せざるを得なかった人生の虚しさも、謳わずには終わっていない点が、私には非常に興味深かった。

それは、この映画の作り手たち全部の、人間をどんな罪びとであろうと人間としか見られぬ、いかにもフランス人らしいロマンチシズムの奔出だからだ。

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