人間不滅のテーマであるヒューマニズムと善意の勝利を、ほのぼのと高らかに歌い上げたミュージカル映画の傑作 「クリスマス・キャロル」
「オリバー!」に続いて、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの原作「クリスマス・キャロル」が再び慈愛に満ちたミュージカル映画として作られました。監督は「ミス・ブロディの青春」「ポセイドン・アドベンチャー」のロナルド・ニーム。
このロナルド・ニーム監督は、「ミス・ブロディの青春」で見せた人間理解の深い、神経の細やかな演出を、今度は19世紀のロンドンを舞台に展開する大人の童話とでもいったディケンズのミュージカル化に発揮して、古典調に統一された渋くて格調のある、しかも、たいへん楽しい作品に仕上げていると思います。
しかし、この作品では、「ドリトル先生不思議な旅」をはじめ映画音楽では優れた仕事の多いレスリー・ブリッカスが、脚本と共に作詞・作曲を一手に引き受けているということを見逃すことができません。ディケンズの原作を、巧みにミュージカルの見せ場を作って膨らませた脚色が実に良く出来ているし、その中へはめ込まれている歌曲が、みんな優しさと慈愛に満ちていて、実にいいんですね。
この映画の主人公は、ドケチ根性に徹した街でも悪名高い高利貸しのスクルージ老人。クリスマス・イブで街は陽気に賑わっているのに、彼の事務所では火の気もなく、平常の勤務時間の七時まで一人の書記クラチットは働かされているというのが、お話の出だしです。
見るからに因業な老人スクルージに扮するのが、かのサー・ローレンス・オリヴィエに認められ、彼の後継者とまで謳われた名優のアルバート・フィニーで、舞台役者らしく扮装がうまくて、ちょっとわかりません。アルバート・フィニーは、私の大好きな俳優の内の一人で、特に「ドレッサー」「オリエント急行殺人事件」「火山のもとで」「トム・ジョーンズの華麗な冒険」での名演が忘れられません。
やっと古時計が七時を打って、クラチットは僅か十五シリングの給料と一日の休暇を貰って解放されます。街へ出ると、彼の五人の子供の幼い方の二人、脚の悪いティムと妹のキャセイが、高価な人形をいっぱい飾った玩具屋の明るいウィンドーをうらやましそうに覗いている姿が目に付きます。
それから父とその子たちは、クラチットが貰ってきたばかりのお金で、貧しく、つつましいながらも、彼らには年に一度の楽しいクリスマスの買い物をして歩きます。店で一番安い品を買っても、最も高価なものを買う人よりも楽しく、うれしそうな彼らの姿が、その歌と共にほのぼのと美しく感動的です。
クラチットを演じるデビッド・コリングスという俳優は、恐らくイギリス劇壇の人なのでしょう、とてもうまい。とにかく、イギリス出身の役者はサー・ローレンス・オリヴィエを筆頭に、アレック・ギネス、レックス・ハリスン、リチャード・バートン、アルバート・フィニー、ピーター・オトゥール、アラン・ベイツ、トム・コートネイ、アンソニー・ホプキンスなどと、いづれも芸達者な演技派ぞろいだ。
そして、このティムとキャセイを演じる二人の子役がまた例によって可憐なのだ。殊に、松葉杖をつく男の子ティム役を演じるリッキー・ボーモン坊やは、後で独唱など聞かせて泣かせます。このクリスマスの買い物の歌をはじめ、それに続く一つ一つの歌曲が、それの歌われるどの場面でも、ドラマの流れにうまく溶け込み、"ドラマの精神"を分かりやすく表現して、画面を楽しく盛り上げていく点は、確かに脚本・作詞・歌曲の三位一体の妙味だと思います。
スクルージの昔の雇い主フェジウィッグ氏のクリスマス・パーティの歌と踊り「12月25日」、昔の恋人イサベルとの歌「幸福」、クラチットの家でティムがかぼそい声で歌う「すばらしい日」の歌。そして、スクルージの幻想の中の彼の葬式の時と、フィナーレとの二回、全く別な意味を持って歌い、大勢の人たちが歌って踊って乱舞する「サンキュー・ベリイ・マッチ」など、レスリー・ブリッカスの力量が十分に発揮された素晴らしい見どころ、聞きどころになっています。
そして、この映画のもう一つの見どころは、特殊撮影のうまさ。映画の大半は、スクルージがクリスマス・イブの夜半に観る幻想的な場面になっています。まず、七年前に死んだ彼の共同経営者のマーレイの幽霊が現われて、過去・現在・未来のクリスマスの精霊たちが代わる代わるやって来て、スクルージに"いいもの"を見せてくれるぞといった予告をするのです。
それを見て、お前も今のうちに改心しないと、俺のようになるぞよという、そのマーレイのいでたちがとても面白いのです。このマーレイに「戦場にかける橋」の名優アレック・ギネスが扮していますが、この幽霊は怖いというより、何となくユーモラスな愛嬌があります。その登場・退場など、特撮のうまさで実に自然なのです。下手だったらこう面白くは見られない場面です。
マーレイと一緒に、浮かばれない死霊がいっぱいに駆け回っている天上へ行ったり、未来のクリスマスの地獄の底で、マーレイに出会ったりするところの特撮は、なかなかのものです。そして、現在のクリスマスの精霊はケネス・モアが扮した陽気な快楽主義者。ここでも、特撮が使われていますが、精霊はスクルージに、人生は一度しかないのだから、それをエンジョーイしなければ、後で後悔しても追っつかないという彼一流の"人生哲学"を教えてくれるのです。
しかし、それよりも、クラチットや、スクルージのたった一人の甥が、いくらスクルージがひどい取り扱いをしても、なお彼らはスクルージに対して温かい愛情や感謝の心を持って、彼のために乾杯をしてくれるということが、老人の頑なな心を感動させ和らげるのです。
未来のクリスマスでは、街の人々が、スクルージの死んだことを知って、これこそ天のお恵みと「サンキュー・ベリイ・マッチ」を乱舞するのですが、当のスクルージは人々の感謝を素直に自分への感謝と受け取って、一緒になって踊るのが実に切なく、滑稽です。
この場面では、スクルージから借金をしていて、その取り立てや利子に、利子の重なる厳しさに日頃泣かされている人たちがたくさん登場しますが、群衆の音頭をとる屋台店のスープ屋のアントン・ロジャースが、これまた芸達者なところを見せてくれます。
こうして、スクルージは、一夜のうちに、過去・現在・未来のクリスマスの自分の姿を見せられている間に、彼の心をコチコチに固めて、誰からも嫌われていたその守銭奴的な根性が、次第に人間的なものに解きほぐされ、あたためられていくのです。彼が幻想の中に見たものは、たぶん彼の一夜の夢であり、また日頃は彼の心の底に閉じ込められていた、もう一つ別な彼であり、また、彼の"呵責の念"の現われであったのかも知れません。
けれど、彼の過去、青春の日を再び目のあたりに見た感慨、恋人イサベルに愛想つかしされた日の心の痛み、現在の隣人たちに人間嫌いの自分のしていること、それに対する彼らの反応、やがて、その自分が惨めな死を迎えるのを見ることの恐ろしさ、そうしたものが彼をいわゆる改心へ導いていくさまが、この映画では自然なこととして頷けるのが、実にいいのです。
そして、頷けるばかりではなく、人間は本来、"善なる性"を持っていて、どんな性悪に見えるものでも、その本来の呼び声には、結局は答えていくものなのだといったことを考えさせられ、感じさせられます。ヒューマニズムは、やはり人間不滅のテーマであり、結局はそれが最後の勝利となるのだというのが、スクルージの中に描かれた"チャールズ・ディケンズの人生哲学、人間観"なのだろうと思います。
しかもディケンズは、イギリスの作家だから、そうしたヒューマニズムを生のまま突き出して、私たちに歯の浮くような思いをさせることはしないのです。得意の苦く辛い諧謔の粉を、とっぷりとまぶして、私たちが、まずそのピリリとした味をかみしめながら、おもむろに、この歪められ、汚濁した社会の中で、究極的に人間を救うものは何か、それは"人間の善意"なのだという一つの真実につき当たる仕掛けになっているのだと思います。そして、そこへいくまでの紆余曲折のドラマが、ディケンズの世界のたまらない面白さなのだと思います。
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