人間の奥底を考えさせられる!「破戒」
過去の身分を隠して生きるということ
「穢多」中学の歴史の授業で、士農工商という身分制度があり「人として扱われなかった身分の人を穢多・ヒニン」と呼んでいたと教師から教わり、それ以上の詳細を述べなかったと記憶に残っていた。思春期に入った当時の私にとって、人として扱われることのない「その人達は、どのように生きていたんだろうか?」と一瞬脳裏をよぎったけれど、詳細を調べることもせず「そのような人達が昔存在していた」ということだけを私の胸にとどめておいた。
主人公瀬川丑松の下宿先から「穢多」という身分が明かされてしまった大日向に対し、人々の憎悪と罵詈雑言、丑松自身も青年教師として「穢多」という身分を隠しながら、只管に生きているその姿を通し、私は苦々しく見えないガラスの破片が心にチクチク刺さる思いで読んでいた。
「人として扱われない人達」あの当時歴史の教師がそれ以上話さなかったことが、この小説には凝縮して描かれている。「人として扱われない」ということは、もはや「生きていくことはできない」というところまで追い詰められる、その苦痛がヒシヒシと伝わってきた。
「絶対に自身の身の上を明かしてはいけない」「隠せ!」と丑松の父は彼を育てた。親心は、息子の将来・幸せを祈ってそのように彼を戒めた。しかし、丑松にとって世の中を経験し、隠そうと意識すればするほど、自身を苦しめていく結果になり、もがきながら生きている「生きづらさ」と共に、そのうちに彼は、神経衰弱になり心が崩壊してしまうんでは、なかろうかとハラハラしながら、私の五感から全身に文章が流れ込むように文豪の才筆に惹き込まれていった。
島崎藤村の執筆は、当時の文豪達が賛嘆するほどまさに超越していると感じた。というのも、長野の風景は、まるで絵画を見ているような如く、表現が美しく生彩で、丑松を取り巻く登場人物たちの性格や心情、生き様が痛いほど伝わってくる。まるで自分自身もこのストーリーのエキストラになってこっそりと様子を伺っている様な錯覚に捉われる不思議な感覚を経験させてもらった。
猪子連太郎の存在
自らを「穢多である」ことを世に公表し、差別や偏見に立ち向かいながらイデオロギーを唱え書に書き留める思想家猪子連太郎。丑松は、彼の生き方に惹かれ憧れを抱く。丑松の精神を支え、丑松の人生を変えた人物の存在は計り知れないものを感じた。もし連太郎氏の存在がこのストーリーに登場してこなかったら、丑松はあまりにも悲惨な結末を辿っていたに違いない。それは、人生の羅針盤の存在が、丑松の前に現れなかったら、丑松は自由な心を獲得することが出来ず、一生哀れな「穢多」として生きてゆく選択肢しかなかったからだ。
ただ一つ疑問に思ったことは、丑松の父の不慮の死において、長野に帰省する際、二人が電車でバッタリと会うシーンのセリフが気になった。「やあ猪子先生」「瀬川君でしたか」この二人の交わす言葉が、まるで以前から、お互い知り合いだったのか?と感じ、私は小説を前後読み外したところはないか?確認してみた。しかし、めぐりあいと文章に記されているように「不思議な運命の出会い」とまとめられていた。その時新聞で、猪子氏の体調がすぐれず、それを知った丑松は、氏に手紙を充てた。猪子氏は、丑松の手紙を読み、純朴な魂を感じ取っていたのかもしれない、だから偶然初めて会った二人は、テレパシーのように分かったのかもしれないと思った。
丑松は、父亡きあと何度も猪子連太郎に「今日こそ本当のことを伝えよう」と決心し、其のたびに父の言葉が浮かび葛藤を繰り返している様子を連太郎氏はその豊かな人間性で、丑松が何を言おうとしているのか、感じ取っていたのかもしれないと私は思った。それは、所々の場面で連太郎氏の若かりし頃の自分を見ているかのような目線を感じ、丑松の亡き父親とは違う愛情・包容力・人間らしさを丑松の心に注いでいたと私は思う。
人間とは、、、残酷!美しい?考えさせられる良書!
丑松が、担任の生徒達に自らの素性を明かして話し、土下座する場面や飯山から離れアメリカのテキサスに旅経つ場面において「差別に負けた」と少なからず感じた人たちがいますが、、、丑松は、連太郎氏と同様、差別には決して負けなかったと思います。
世に挑むようにして、自ら差別と偏見に戦った連太郎氏と出会い、彼の最後を見届けた丑松は、悟ったのだろうと推測します。明治維新になって士農工商の身分は、廃止され「穢多」も平民として制度を設けたにも関わらず、それを許すことの出来ない人々の根底にある差別、独特の憎悪、「新平民」として尚、いたぶり続ける人間の浅ましさ、身分や地位等という言葉に目がくらみ「同じ人間」だという「人間尊重の出来ない国」を丑松は、後にしてテキサスに旅経って行ったのではないかと思います。確かにアメリカにおいても「異国者」として酷い差別を受けたかもしれません。しかし、祖国で打たれ強くなっている丑松は、語学を身につけ、アメリカ開拓の先駆者として、お志保を嫁として迎え、長い道のりではあるけれど「自由」を獲得していったに違いないと私は想像します。
混迷の時代に生き、少し?心を病んでいる一人として、「宗教観の違い」「テロ」「人種差別」「社会性」「SNS」等、世の中は、複雑化しており「憎しみ(Hate)」は世界的な問題になっています。
「破戒」という小説は、明治の時代を背景に「差別」ということに焦点を当て人間の奥底にある残酷さ美しさを見事に書き上げた類まれな書物だと思います。恥ずかしながら、私は年齢は教えませんが、この齢にして初めて「島崎藤村」の書に触れる機会が持てたことに感謝しています。そしていつの時代に於いても、「良書」というのは、その人間の奥底を考えさせ、生き続ける存在なんだと感服致しました。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)