子供だまし、前作へのリスペクトなし、なんじゃこりゃ映画
目次
これぞ子供だまし 苦情殺到は当然の結末!
本作は1998年に劇場公開された。
劇場版第一作「銀河鉄道999」は1979年放映、興行成績16.5億円、これはその年の上映作品の中で最高のものであり、同年テレビ放映された「機動戦士ガンダム」と並んで第2次アニメブームの牽引役となった。
そして二作目、「さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅」は81年放映、興行成績11.5億円、前作には届かなかったが主題歌の大ヒットなどもあって、概ね好評だった。
そして、17年の歳月を経て公開された本作は、なんと興行収入2億円止まり…
視聴者から劇場に苦情が殺到した、という伝説的惨敗を喫した。
確かに、お世辞にも出来がいいとは言い難い。
どこがどうダメなのか、具体的にあげよう。
ちょっと伝説的第一作を語っておこう。
本作の前の二作品は、とにかく面白かった。
レトロな蒸気機関車で宇宙を旅する美女と少年、そこに松本零士作品のヒーロー、ヒロインが惜しみなく登場する、いわゆるアベンジャーズスタイルである。
全シーンが盛り上がり必至の場面ばかりで、アクションあり、涙あり、松本零士作品独特の男のロマンあり、面白くないわけがない。
そしてそのヒーローたちはただ登場するのではない。
キャプテンハーロックで描かれなかった、友トチローがアルカディア号の頭脳となるシーンが描かれており、ハーロックファンは歓喜した。
二つの劇場版の監督を務めたりんたろう氏は、大人が見ても面白い作品を、と主人公鉄郎の年齢をテレビ版の10歳から15歳に引き上げ、少年が数々の出会いと冒険を経て大人になっていく、という成長物語を描いた。
その本気度はビシビシと我々少年に伝わってきた。
私は少年時代にこの第一作目を劇場で見た。
その時既にアニメファンだった私はこの大好評の作品を見ない訳にはいかないと、なけなしの小遣いを握りしめて劇場に向かったのだが、その姿はあたかも999のパスを手にした鉄郎のようでもあった。
そこで目にしたのは、田舎の映画館にも関わらず立ち見するほどの観客と(当時は席の管理をしていなかったので立ち見がありえた)、日ごろアニメファンをバカにしているようなクラスメイト数人の姿である。
当時アニメは現在ほど市民権を得ておらず、幼稚なものとみている人も多かった。
そのような偏見を超えて、普段は屋外で野球やサッカーに汗を流していたスポーツ少年や、ちょっと気取った悪ガキすらも足を運ぶほどに、第一作「銀河鉄道999」は話題の映画だったのだ。
「本当の旅」が始まる… って過去作は本当じゃないのかよ!
本作のエンディングで、以下のようなもったいぶったナレーションが流れる。
「鉄郎とメーテルの本当の旅が、(中略)これから始まるのだ」
本当の旅が、というところに着目したい。
これからが本当ということは、過去作が本当ではない、ということになり、このしょぼい作品が過去 二作より上、という意味になってしまう、と私は思う。
無論、本作のスタッフが過去作を馬鹿にしたわけではないのだろう。
だが、視聴者は厳しい。
そこまでのストーリーに満足していれば、そんな疑問も湧かないが、この内容でそれ? どの口が言ってんだ? と思ってしまうのは仕方ない事だろう。
そもそも、作品の終わりに、○○の本当の闘いは今始まったばかりなのだ、的なナレーションを入れるというのは、きちんと結末を作れなかった無能な制作者が、とりあえずこの先はもっと面白いよ、と逃げている時の常套句だということは子供でも知っている。
時は既にバブルもはじけた90年代末期、こんな言葉ではせいぜい10歳児だってだまされるかどうか?
無論、本作は翌年に完結編ができる前提で作られているのだから、次につなげる言葉は当然出すだろう。
だが、スタッフは最も使ってはならない言葉を使ってしまったのだ。これが不用意である、と考えもせずに。
アルカディア号の扱い
テレビアニメ版の鉄郎は10歳、原作に忠実な3~4頭身で、見るからに子供である。
劇場版過去二作では前述したように大人も楽しめる作品に、ということで鉄郎の年齢は15歳に引き上げられ、若干凛々しい5頭身になっている。
本作は主人公である鉄郎の姿がテレビ版に準じているので、つまりテレビ版の続編と考えていいと思うのだが、テレビ版999の第81話に登場するアルカディア号はテレビアニメ「宇宙海賊キャプテンハーロック」と同様の先端が鋭角な青系の機体である。
それはそれで徹底してくれればいいのだが、しかし本作のアルカディア号は艦首にドクロを施した劇場版999のデザインだ。
このちぐはぐさが、なんとも見るものを白けさせる。
このような良いとこ取りをする場合、その面白みがあれば許されるのだが、本作の雑な作りを見るに徹底さを欠いたようにしか受け取れない。
あるいは過去二作の威光にすがったのかもしれないが、それであれば他にも学ぶべき点は無数にあっただろう。
キャプテンハーロックの扱い
鉄郎は劇場版1作目、2作目でいろいろな人と出会い、成長している。
そして過去作でもハーロックとエメラルダスは鉄郎のピンチにさっそうと現れて救ってくれる、のだが、その前にきちんと生身の人間同士の交友があるのだ。
鉄郎はハーロックの友、トチローと出会い、その最後を看取り、トチローの魂をアルカディア号に送る手伝いをしてくれた。
ハーロックはこの鉄郎の行為に心から感謝し、鉄郎もハーロックを尊敬する。
親子ほども歳が違う鉄郎をハーロックは対等の男としてあつかい、それだからこそ、彼の窮地に命を懸けて駆け付けるのだ。
しかし、本作の扱いは違う。
999のピンチにアルカディア号で現れて、船上からドカドカ主砲を撃つだけで、直接生身をさらしはしない。
そして鉄郎に上から目線でアドバイスし、更に太陽が超新星化したことに対して何故かその処置を鉄郎主体でやらせようとたきつけるだけ。
なんだかどっかの会社にいるような、無責任オヤジにしか見えない。
このような行動は外見がかっこいいだけのなんちゃってハーロックにしか見えない。
この記事を書きながら、他の方が書いた本作のレビューを見ていても、メーテルが何でも知っている風なのに事前に言わないのが不可解、という趣旨のコメントを見つけた。
詰まる所、過去作や登場人物に対するリスペクトの無さが、やたらと目立つのだ。
視聴者を舐めているとしか思えない数々の失態
根本的な手法として、本作は明確に完結編ではなく、繋ぎなのだから、それを明言してしまえば良かったのではないだろうか?
予告やポスターで、新たなる冒険の序章、再会編エターナルファンタジー1998、完結編エターナルメモリー(知らんけど勝手につけた)1999、二部作で完結!
と書いておきさえすれば、まず苦情の半分は減らせただろう。
実際にハリウッド映画などでもこの時既にやっている手法だから、恥ずかしいことではない。
(スターウォーズは第一作こそ単独だったがその後は複数回の製作を明言しているし、バックトゥザフューチャーも同様である)
と、いうより明言しない事こそが不親切だ。
そういう告知をしないで封切れば、当然視聴者は伝説の過去二作の水準を期待するだろう、と思わなかったのだろうか。
もしかしたらスタッフはテレビ版の延長で作ったのか?
つまりテレビアニメは30分なので、その倍の尺を持つこの作品なら見ごたえあるだろう、とでも思った、とか?
第一作上映から20年近い歳月が流れているので、ターゲットである小中学生(どう見たって15歳以上が対象の作品ではないだろう…)が以前の作品を見ていない可能性は確かにある。
しかし第一作は前述したように、公開年の興行成績第一位。
子供が知らなくても親が存在を知らないはずはない。
そしてこの時代のファンはアニメ雑誌などで予習をしている事が多いので、情報はかなり持っているのだから、過去の二作がどれほど良かったかを知っている可能性が高い。
だからこそ、比較対象はテレビシリーズではなく、やはり劇場版二作であるべきだったのだ。
実際に10歳前後の子供がいちいち苦情を言ったとは考えにくいので、劇場に足を運んだのはそれなりの意思と表現力を持った人だったのだ。
当然その人たちはテレビ版の延長でちょっとスケールがデカいふりをした雑な作品ではなく、過去二作品に並ぶ感動を期待してお金を出したのだろう。
つまり、スタッフは視聴者を舐めていた上に、劇場版999という一大コンテンツを舐めていたのだ。
他にも言いたいことはたくさんある。
突然、太陽が超新星化したという車掌の告知に、見ている方はついていけず、ポカーンなのだが、その後のフリが笑って見逃せない。
公開されていないので予測でしかないが、この旅の終着点まで行けば、おそらく願えば何でも望みが叶う、ドラゴンボール的なものがある、という事が示唆される。
(主役の声は孫悟空と同じ野沢雅子だし、やっちまえ、とでも思ったのだろうか…)
そうだとすると、劇場版第一作のメッセージを台無しにしていることになる。
母の仇である宿敵、機械伯爵を倒した後、鉄郎はハーロックに熱く語る。
「限りある命だから、人は精一杯がんばるし、思いやりや優しさがそこに生まれる」と。
これは機械人間の永遠の命に対する言葉ではあるが、この何でもやり直せる、というアイテム(能力?)を想定した作品を作ったのであれば、過去作のテーマへの冒涜だろう。
結局、本作は999に流れる意思を受け継いでもいない。
こんなスタイルの作りでは、子供にも受けず、大人にも受け入れられるはずがない。
更に…
エンディングに入る直前、惑星大テクノロジアに向かう999の後に続く、アルカディア号とクイーンエメラルダス号。
ここまではわかるけど、その後に飛んでたのは、ヤマトではないか…
なんじゃそりゃ…
何でもありすぎて、呆れて爆笑すらしてしまう。
ある意味凄いもん見た、って感じである。
これが80年代前半なら、まあヒットはしなくても苦情は来なかったかもしれない。
しかし時代はバブルもとっくに終わった冬の時代、第三次アニメブームではあるが明らかにファンのニーズとはかけ離れていた。
70年代から80年代前半は松本零士の全盛期が確かにあった。
宇宙戦艦ヤマト(著作権闘争の結果、現在は彼が原作を名乗ることはできなくなったが、当時は原作と明記されていた)の大ヒットをはじめとして、前述したように999の2本の劇場版も大好評だったし、テレビ版999も三年続く人気作だった。
他にも宇宙海賊キャプテンハーロック、千年女王、ダンガードAなどヒット作は数多い。
しかし、このエターナルファンタジー公開時には、そのブームは既に去っており、90年代に彼の名を冠するテレビアニメは一本も制作されていない。
95年に放送された新世紀エヴァンゲリオンで、もはやアニメの物語作りやトレンドは変わってしまっていたのだ。
当時の少年少女たちからすると、男のロマンとか、昭和風な旅館が、宇宙のとある惑星にあるなどという設定は、ギャグかホラーにしか映らなかったかもしれない。
過ぎ去ったブームを呼び起こそうと言うのなら、やはり本気度こそが大事なのだが、ここまで語ってきたようにスタッフの999世界への愛情はほとんど感じられない。
その当時のスタッフのコメントが無いかと探したところ、本作の監督を務めた宇田剛乃介へのインタビューが見つかった。
本作、エターナルファンタジーに向けたコメントではないので一般論だとは思うが、記載しておく。
練馬アニメーションサイト、2015年8月の練馬区のPRアニメ制作時のものだ。
影響を受けた作品は? との質問にスターウォーズやジョーズを挙げた後、羊たちの沈黙を当時幼かった自身の子供と見たときの感想を述べている。
難しい内容でも子供は理解している、という趣旨の発言の後、「子供向けの作品を作っても、子供だましは作っちゃいけないと思いました」と言っている。
羊たちの沈黙は1991年放映、自宅で見たシチュエーションなので98年の本作エターナルファンタジーより前か後かは不明瞭ではあるが、本作こそが子供だましだよ!と私は言いたい。
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