期待だらけのはずなのに失速してしまった作品
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大物ばかりが関わっている作品なのだが・・・
あの銀河鉄道999の続編であり、当然のことながら松本零士原作であり、声優陣も野沢雅子さんをはじめとするおなじみのメンバーであり・・・と松本零士ファンには期待だらけの作品だった。
私は子の作品は劇場に足を運んで観に行ったし、当時はもう映画は衰退傾向で、東映まんが祭りなどが全盛期だったころに比べると館内は人がまばらだったとはいえ、当時にしてはかなり人が入っていたように感じた。しかし、この映画が終わり、エンドロールが流れ出した頃に、館内に響いたのは、観客の「もう終わり?」「うそでしょ?」というざわめきだった。
とにかく尺が短い。1979年の第一作目と、1981年の二作目と比較しても半分以下の54分。どうも、私は事前に情報を仕入れずに観に行ってしまったのだが、この映画が公開された年は1998年。翌年の記念すべき1999年に、エターナルファンタジーの完結編として、長い尺の映画が予定されていたようで、この作品はいわゆるその映画の導入部分の紹介のようなものだったのだ。事実館内でも1999年に続編公開予定と宣伝が流れた。
現在は海猿などをはじめ、連続ドラマとタイアップして長編映画が製作されることもあり、テレビ媒体と映画の双方で一つの作品が描かれることもあるが、当時はそういう手法はなかったとはいえ、この作品は正直映画の導入の紹介として地上波でテレビ放映する程度でも良かったのではと思う。
また、興行成績自体が悪く、結果的には1999年に長編が公開されることがなかったのだが、一見動員数が多いのではと思ったのは、私が観に行った日にたまたま人が入っていたという事もあるが、1981年のころにはなかったCGを駆使した999を見たいというファンもいただろうし、やはり期待が大きかった。あれだけ完全燃焼しつくした999が、どう復活するのか過剰に期待していたファンは劇場に足を運んだだろう。
ファンの中には、もう自分なりに物語に決着をつけている人もいる
一方で、999はもう、アンドロメダ編で完結している、お腹いっぱいだと思ったファンには、エターナル編は蛇足感しかなかったかもしれない。原作をすでに読んである程度あらすじを知っていたファンもいたと思うが、エターナル編は1981年の2作目の続編ではなく、原作の銀河鉄道999の続編というスタンスで描かれている。だから鉄郎も15歳のイケメンの鉄郎ではなく、三等身のちょっと不細工な鉄郎だし、鉄郎のお父さんがファウストだったという設定も忘れ去られている、というよりないものとなっている。さよなら銀河鉄道999で、一つの答えを受け止め、そして少年は大人になるという、メーテルとは二度と会わずに鉄郎は大人になったんだという結末を受け入れてしまった人には、また別の設定で鉄郎とメーテルが出会う事自体、受け入れられないという心理があったかもしれず、それが動員の伸び悩みにつながった可能性は否めない。それだけ過去2作の出来栄えが良すぎたとも言える。
作画はきれい。しかし中身の変わりようは賛否がありそう
個人的には作画監督の小松原一男氏が描いたキャラクターはアニメ界では誰にも超えられないと、過去2作を愛する者としては思ってしまうのだが、絵の綺麗さという意味では技術面が向上した分、迫力はある。やはり999がCGで描かれているだけでも迫力は違うし、小松原一男さんが描くものとは異なるものの、絵柄自体は原作の松本零士先生のタッチを尊重していて美しい。
ある意味原作に忠実に作られてはいるのだが、あの無機質な機関車の「ワタシハ、C62-48」という声や、車掌さんとの言い合いが大好きだった人もいると思う。エターナル編ではカノンという電子妖精が機関車の代弁をしていて、車掌さんが機関車と規則のことでああのこうのと言い合うことはない。カノンはかわいいキャラクターではあるが、クレアの復活だけでお腹いっぱいのファンとしては、女性キャラはクレアとメーテルだけで、機関車はあの無機質で頑固だけどちょっと人間臭い機関車のままでもよかったようにも思う。
また、これも賛否がありそうなのが、メーテルの性格が大幅に変わってしまったことだ。エターナル編のメーテルは、映画も原作もとにかく短気である。鉄郎と別れた後に余程ムカつくことがあって人格が変わってしまったとしか言えないくらい、過去の冷静さに欠けている。
新たに現れた敵、メタノイドのことを、「犬」と表現するシーンがあるが、これは犬好きの人が見聞きしたら気分を害するのではないかと疑問に感じた。あの優しいメーテルが特定の生き物の呼称を悪者を揶揄する表現として使用するだろうかという点に、単に性格が変わったというよりキャラクターの設定にぶれのようなものを感じるし、犬好きの人への無配慮を感じた。
そもそも999復活の目的である敵の描写が曖昧
メタノイドについてもなんだか作中ははっきりわからず、鉄郎もメーテルも漠然とした敵に対して怒り狂っているというだけで、どうも観る側としては取り残された感があり、共感がしにくい。
メタノイドは、ダークィーンという究極の敵の子分に過ぎないのだが、その部分が語られることもなく作品は終了している。過去二作では、機械の体を推奨している星があり、最初は憧れるが機械体の実態を知るにつれ鉄郎は目標を変更し、その星を破滅させることをもくろむようになり、謎過ぎるメーテルがその星の親玉の娘だったという納得がいく展開になっている。しかし、どうも地球が腑抜けにされたということ以外、今回の敵はそこまで憎悪すべき敵なのか、よくわからないのである。
そういった世界観の変わりようを、どこまで受け入れて楽しめるかによっても、この作品の評価は分かれそうである。
まだ原作は完結していない
敵が相当悪いやつらしいと思わせるエピソードとして、ブライトリングファイヤフライという星で、一晩宿を取らせてくれた宿の娘イーゼルとその父が惑星ごと敵に破壊され殺害されてしまう。そのあたりはイーゼルが作った弁当のエピソードがかなりかわいそうな上にテレビ版の999を彷彿とさせるエピソードなので、そのあたりは共感できた人も多いだろう。
しかし、途中で出てくる女騎士ヘルマザリアはどうもメーテルと既知の関係らしいが、どれだけ大物なのか、正直エメラルダスやハーロックに比較して凄さがよくわからない。実はこのヘルマザリアは原作では鉄郎の人生のトラウマとなりかねぬ存在になっていくのだが、そのあたりも本作品では全く描かれることはない。物語はテクノロジアという、敵を倒すためのきっかけになりそうな星に到着するところで終了してしまうのである。これについてはこの先を制作サイドは作る予定でいたので仕方がないが、何もかも中途半端で終わってしまった、惜しい作品といえる。
この映画が失速してしまったせいであろうか、松本零士先生の筆も止まってしまったようで、999はエターナル編の映画上映後、もうじき10年になろうとしている現在でも完結していない。松本先生が、鉄郎に男の生き方としてどういう結論を出させ、メーテルという存在をどこまで明らかにし、銀河鉄道999という物語をどう決着づけようとしたのか。この映画をDVDで見るたびに、謎でならないし、先を知りたいような知りたくないような気持ちになる。同時に、古き999を知っているファンとしては、鉄郎はプロメシュームを倒し、メーテルと別れて、大人になったんだということで納得しておきたい気持ちも起きるのだ。
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