折れた竜骨世界の歴史小話 - 折れた竜骨の感想

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折れた竜骨

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折れた竜骨世界の歴史小話

5.05.0
文章力
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ストーリー
5.0
キャラクター
5.0
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5.0
演出
4.0

目次

折れた竜骨と歴史

米澤穂信という作家は、概して現代の話を書く作家であり、この折れた竜骨という歴史を題材に扱った作品は異端に当たります。元々は全くの異世界を舞台にしたハイ・ファンタジーだった代物を改変して作ったのが本作となります。

米澤穂信がこの特異な作品を書くに至ったのは、新境地の開拓や編集の薦めなどがあるでしょうが、一度は歴史ものをやってみたいという純粋な考えも少なからずあったのではと私は推測します。彼が歴史好きである事は明らかで、かつてはタクティクスオウガという中世ヨーロッパ色の濃いゲームについて濃い対談をした事もあるほどです。

歴史とは即ち無数の人間達の生の集合体であり、有象無象達の様々な動きによって形作られる複雑怪奇な代物です。昨今(2017年現在)話題を集める応仁の乱の概説書を実際に読んだならばおわかり頂けるでしょう。折れた竜骨という作品は、表層的にはヨーロッパのとある小島で起こったコップの中の嵐の顛末を描いた作品ですが、その裏には現実に存在したヨーロッパ世界の歴史が存在し、それとソロン島のエイルウィン家とは切り離せない関係があります。作品の原型たるハイ・ファンタジーの架空世界とは違うのです。

そうした歴史の流れから本作を読み直すと、また違った発見や楽しみが得られる。それを明らかにするにあたって、折れた竜骨世界と歴史との関わりについて少しばかり文章を書き連ねてみる事にします。通常のレビューからすれば、それこそ異端と言うべきでしょうが。

ロバート・エイルウィンのソロン支配の背後関係について

ハール・エンマことフレイア・ラルスドッティルと彼女の属するデーン人の部族達は、元々はソロン島に住まう人々でした。それが島を追われたのは、部族の裏切り者であるロバート・エイルウィンの攻撃を受けたからです。1106年の出来事と言います。実はこの1106年には重要な出来事が起こっています。イングランド王ヘンリー1世が、実兄のノルマンディー公ロベールとの合戦に及んだのです。

史実においてヘンリー1世はロベールを討つべく自ら渡海してノルマンディーに侵攻していますが、ここでソロン島のデーン人達は少なからず邪魔な存在になります。彼らがイングランドに対して海賊行為に及べば、ノルマンディー遠征に悪影響を及ぼす事は避けられないからです。当時行軍中の食糧を『現地調達』するのが普通であっても、後背を脅かされる事は兵達の士気に関わります。

1106年当時、既にヴァイキング(作中ではデーン人)の勢いは完全に失われていました。かつてはデーン人の強い影響下にあったイングランドはそれを克服し、彼らの故地デンマーク・スウェーデンでは既にキリスト教化が進みつつありました。そんな状況下で自らを『デーン人』と称し、異教徒でもある彼らは、ヨーロッパ世界で孤立した存在であった事は想像に難くありません。あるいはロバートは、そうした流れに危機感を抱き部族を裏切ったのかも知れません。

ロバートとヘンリー1世の思惑は一致しました。ロバートとしてみればイングランドの後ろ盾がなければ故郷を裏切りソロンを支配する事は不可能であり、ヘンリー1世とすればロバートに恩を売ってソロンを影響下に置く事で背後の安全を確保する事になる。

ロバートはイングランドやウェールズから農奴をかき集めてソロンの市街地を作らせたとされています。恐らくソロン攻略の際には、農奴ではなく傭兵をかき集めたのでしょう。一つの島を攻め落とすほどの傭兵をかき集めるならば、当然ヘンリー1世の側に察知されるのは避けられません。その観点からも、ロバートがヘンリー1世と秘密の盟約を結ぶのは必須条件だったと言えます。

ではどうしてロバートはヘンリー1世との渡りをつけられたのか。これは全くの推論ですが、ロバートはヴァイキング伝統の掠奪によってではなく、交易によって自らの生計を立て、それ故に様々な場所に顔が利き、世界情勢をより正確に把握する事が出来たのではないでしょうか。作中、ローレントやアミーナの外の世界への強い関心が語られていますが、その祖先たるロバートもまた似たような人物だったとしても不思議はありません。

エイルウィン家の『その後』

この作品は史実(に幾分かのファンタジー要素が加わった)12世紀末ヨーロッパ世界の片隅を舞台とした小説です。被害者となるエイルウィン家当主・ローレントは現イングランド王リチャード1世に忠誠を誓い、王弟ジョンとソロン島の権益を巡り対立している、という設定が存在します。

この作品を単純に推理小説として読む場合、それは単なる背景設定の一つに過ぎないし、誰がローレント殺害の犯人(走狗)なのか、という推理にもほとんど無用の情報に過ぎません。純粋に作中の時間軸での事件のみに注力して読むのなら、読み飛ばしても何ら支障はありません。

しかしながら、例え架空の人物、準架空の世界の出来事であれ、彼らは事件の後も生き続ける血の通った人間です。特にアミーナの場合、彼女は父に比べて到底英明とは言いがたい兄・アダムを新当主とするエイルウィン家に関わり続けるという決断をしています。それは未来など知る由もない彼女の視点からしても、途方もなく困難で、不毛かも知れない決断です。ではその後の『史実』から考えればどうなるのか。

冒頭で述べた通り、エイルウィン家前当主ローレントは代々受け継いで来たソロン島にまつわる諸権利を巡り、王弟ジョンと対立していました。それに憂慮の意を示したアミーナやソロン市市長マーティン・ボネスに対してローレントは「ジョン殿下にはソロンに兵を送る力もなければ、王位に就く見込みも薄い」という見解を示しました。1192年の時点では、それは概ね妥当な見解でした。

しかし、そう遠くない未来、彼らの憂慮は最悪の形で具現化する事になります。リチャード1世の急死と、それに伴うジョンのイングランド王即位によって。しかもジョンはイングランド諸侯から不人気で政権基盤も脆弱であり、イングランド国内は親ジョン派と反ジョン派に二分され、更にその陰で暗躍するフランス王フィリップ2世の介入で長い混沌とした時代を迎える事になります。

作中には、女帝モードとスティーヴン王の泥沼の内乱で実家が多くの領土を失ったエイブ・ハーバードという人物が登場します。イングランドの『その後』を考えると、彼の存在そのものがエイルウィン家が辿り得る未来の一つのifであると言えます。ジョンの時代のイングランドの内紛でアダムが風向きを読み違えれば、ハーバード家と同じか、それ以上に悪い運命が待っているかも知れないのです。そしてアダムには、その辺りの風向きを巧みに読み取る能力は期待出来ません。

米澤穂信という作家の特徴の一つに、絶妙な後味の悪さ、というものがあります。今作の場合は、本当の走狗が探偵役たるファルク・フィッツジョンその人であり、それを未だ幼い愛弟子のニコラが殺害せねばならなくなり、しかもその働きは公にはほとんど報いられる所がない、という部分が表層的には当たるのでしょう。しかし、歴史的な流れを重視する場合、むしろより後味が悪いのはその後のエイルウィン家の未来の薄暗さの側です。エイルウィン家に残る決断を下したアミーナの諦めに近い言葉は、そうした歴史から考えると、より重く深い一言であると言えます。彼女と一族の将来に、幸あれかしと思わずにはいられません。

おわりに

未読者向けのレビューは無用、新味のある独自の考察をもってせよ、という方針は独特で、実際取りかかるとかなり難儀しましたが、いかがだったでしょうか。作中世界の登場人物・事件などの歴史的バックボーンについて語れるという事は、それ即ち作品の魅力がそれだけ強いものである事を表していると私は考えています。

考察の態を成すか自信がなかったので見送りましたが、ブレーメンの強盗騎士コンラート・ノイドルファーや謎めいたサラセンの錬金術師スワイド・ナズィールなど、その他の人物のバックボーンも語りたくなる魅力が存在していて、そちらを切り口にレビューする方もおられるかも知れません。どうもこの作品についての一般のレビューを見るに、馴染みがない人名・舞台を敬遠する向きが少なくないのが残念です。いち歴史好きとしては、そこにもまた作品の魅力が詰まっているのだと語りたいと思っております。

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