子供よりも実は大人向けの少女漫画
子供の頃に感じた可愛いものの象徴
子供の頃に見たマンガをいくつかあげるとすると、絶対にこれは入ってくる。もちろんアニメのほうもオープニングテーマを最初から最後まで歌えるほど見ていたけれど、私の記憶にしっかりと残っているのはマンガの方である。当時は空想遊びでこのマンガの設定、子供の頃に捨てられて孤児院で育ったけれども実の親が迎えにきてくれてそれが大金持ちの王様で…といった想像をよくしていた。子供の頭にばっちり入ってくる可愛らしい絵柄に当時は夢中だったけど(丘の上の王子様のブローチは多くの女の子が当時持っていたアクセサリーだった)、ストーリーが進むにつれて深まる深刻さにはあまり気づかなかった。子供ゆえにキャンディの服装や持っているかばん、アードレー家の養女にもらわれた先での可愛らしいドレスやお花のパイなどにばかり目がいき、キャンディを取り巻く周りのシビアさまでには目が行かなかったのも当然かもしれない。
髪をむすぶリボンや角を補強してあるトランク、裏布のついたバスケット、レースの服。子供ながらに可愛らしいと感じた全てのものがこのマンガにあった。当時の私が木登りが好きだったのも、見よう見まねで投げ縄をやってみたのも、リンゴを皮ごと食べてみたのも、全部このマンガの影響だった。
悪意のラガン家、善意のブラウン家・コーンウェル家
最初にキャンディがイライザの話相手としてもらわれてきたときから一切の優しさなど与えずにいじめぬき、最終的には濡れ衣を着せてメキシコに追いやってしまうラガン家の家族には、およそ人間的な奥行きや深みというものが感じられない。イライザ、ニールはもちろん奥様でさえなんの情けも見せない。イライザと同じ年ごろの娘にあんな仕打ちがなぜできるのかというのが常にあった。でも大人になって読んでみると差別も激しかった時代の頃だろうし、あれほど上流社会に生きる彼らがそうなるのは当たり前なのかもしれない。そもそも奥様がキャンディと話すときにいつも扇子のようなもので口元を隠しているのも、下品なものと同じ空気を吸いたくない心の現われだろうし。映画「タイタニック」で、避難ボートに乗るのも混み合うのは嫌だと言ったローズの母親によく似ている。そしてだからこそキャンディがアードレー家に養女になったときの怒りは凄まじかっただろう。でも怒りを面だってだすことはプライドが許さないし、だからこそ彼女が何をしても許せなかったのだろう。それでも大おじ様であるアルバートさんを看病したのはキャンディだったと知ったときのエルロイ大おば様の顔は、すこし今までの自分を反省したのかもしれないと思わせる表情だった。
同じ名家の出身なのに、アンソニーやステア、アーチーのブラウン家・コーンウェル家は始めからキャンディに好意的だった。この好意がイライザやニールの悪意を煽っているのは皮肉な話だけども。このあたりのドロドロさ加減も子供向けでないと思う理由の一つだ。
キャンディを待ちうける厳しい試練
子供の頃はメルヘンチックなものばかりに目がいっていたけれど、大人になってから読むとまたその印象は違ってくる。もちろん可愛いものはそのままなのだけど、この設定は大人向けではないかと思えてくるのだ。
彼女の特徴である、苦境に立たされてもめげずに明るく笑顔で振舞う様。それはいつも可愛らしく描かれている。その影響はもちろん丘の上の王子様だったのだろうけど、それだけだとただ鼻につくだけかもしれないその設定が、苦境がシビアに描かれているからこそ彼女の笑顔の素晴らしさを感じることが出来る。そもそも一番最初に自らを紹介するパーティーの狐狩りでアンソニーが事故で亡くなるのも相当きつい。アードレー家に養女としてもらわれて幸せになろうとする矢先に、最愛の人を亡くすとは。それも自分が養女にならなければ起きなかったかもしれない事故だなんてきつすぎる。これを皮切りにキャンディは様々な試練を経験する。テリィとの恋は読んでいて羨ましくなるくらいだったけど、それも長くは続かずにスザナの事故により別れることになったときは泣きそうになった。またこの事故も、テリィをかばおうとしたスザナが足を切断してしまうという重さ。アニメがどうなっていたのかはあまり記憶にないのだけど、子供が見るにはシビアすぎるかもしれない。ラガン家にされた様々ないじめなどはほんの些細なことだと思わざるを得ないほど、およそ普通の人が経験しえない試練を超えていっている。
どうしてそれでも笑顔になれるのか、どうしてそこまで苦労しているのに看護婦という道を選んだのか。過酷な体験を経験しているからこそ小さい幸せが限りなく大事に思えるのか。
テリィが家族とハイキングに行った記憶、家族との楽しかった記憶はただそれ一度だけだという話をした時にキャンディが言ったセリフを今でも覚えている。「1回あれば十分よ、あたしなんて一度もないわ」。このセリフを決して卑屈でなく、うらやましげでもなく、自然に言える人間はそういないと思う。それだけの経験をしているからこそ実感として感じているから言えるのかもしれない。
最大の試練と呼ぶべきもの
これはステアの死と、ニールからの求婚ではないかと思う。ステアが戦死したときの描写は限りなく美しく哀しい。この辺りの描写は確実に大人向けではないだろうか。子供向けのメルヘンなど少しも入らない描写になっている。一騎打ちするはずが背後から別の機体に撃たれ墜落していくさまは暗く重く、涙なしでは読むことはできない。そのうえキャンディはお葬式さえも出席を許してもらえなかった。そこで悲しみの余り自殺を図るパティを止めたのはやはりキャンディだったのだけど、なぜキャンディばかりが悲しみを爆発させることを許してもらえないのか。いつもキャンディばかりが不幸を背負っているような気さえする。
その上宿敵と呼んでもいいくらいの相手ニールからの求婚。彼なりにキャンディを愛していたのだろうけど、方法も知らなければ無駄なプライドだけが高い彼の求愛方法は鳥肌が立つくらいだった。ステアの死さえも自らの目的のために利用するところは虫唾が走る。だけど彼ももしかしたらラガン家という名前のみ振りかざして生きてきた故にアイデンティティが確立できなかったただの弱者なのかもしれない。
でもこれのおかげでアルバートさんが大おじ様と分かったわけだし、結果オーライと言うべきか。婚約破棄を親族の前で言い渡したアルバートさんは今までで一番素敵だった。
昔ちょっと思いついて、アルバートさんとキャンディが一体どれだけ年が離れているのか調べてみたことがある。6才のときに出会った丘の上の王子様は見た目は15~7才くらいだったから、だいたい10才前後離れているとみていいと思う。キャンディとロンドンで偶然であったときも「僕はまだ20代だよ!」といっていることから彼が意外に若いこともわかる。そしてだいたいそれくらい離れていると考えれば絵柄もぴったり来る。
アルバートさんが大おじ様と分かったうえで、二人で木の上でランチをするところは大好きなシーンのひとつだ。
いがらしゆみこの絵の魅力
彼女のマンガは他に「ジョージィ!」を読んだが、私はこちらの「キャンディ・キャンディ」の方が好み。この人の絵は全体的に可愛らしいけど、登場人物の子供の頃の顔と大人になってからの顔やその体型の書き分けがとても上手だと思う。ふわふわして可愛かったキャンディもちゃんと大人の女性になっているところが好きだ。この書き分けが上手なので他に印象的なのは「ベルサイユのばら」の池田理代子。彼女が書く登場人物も、幼いころと大人になってからの書き分けがきちんとできていて、読むのに楽しい。
「キャンディ・キャンディ」の版権をめぐって原作者ともめているということは有名な話だけど、早く収まるところに収まって名作の名前に傷がつかなければいいと思う。
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