軽く楽しめるサスペンスホラー
どこにも逃げられない恐怖
山荘に篭った作家が雀蜂に襲われるところから始まる。季節は冬で、本来なら自然の中では活動できないスズメバチが山荘の中を飛び回っている。少しでも昆虫のことを知っていれば、真冬のましてや雪がちらつく中、ハチが飛び回ることなどないことが分かる。これでただの事故や偶然でなく、仕組まれた罠ということが見えてくる。この冒頭のあたり、作家がスズメバチに追われ逃げ戦うところは、臨場感があって手に汗を握るくらいだった。ましてや彼は過去にスズメバチに刺された経験があり、あと一度刺されるとアナフィラキシーショックによって命の保障がない。私自身、過去にハチに何度か刺された経験があり、それほど重篤なアレルギー症状こそ出なかったがその時の恐怖は身に刷り込まれている。あの不愉快な独特な羽音と何よりも強烈な痛み。彼が感じる恐ろしさは手に取るように理解することができた。だから、カーテンでハチを押さえ手が塞がってしまっていて仕方が無く、くわえていたタバコでハチを殺すところなど恐ろしくて震えた。先ほど言ったように一度スズメバチに刺された人間は、その恐怖を身に刷り込まれている。いわゆる原始的な恐怖に近い。それに加えて彼は次もう一度刺されたら死ぬということ。方法が他にないとはいえ、それに自らの顔を近づけていく恐ろしさは想像するだけで寒気が走る。その上、一匹をやっつけても後から後から隙間を見つけて入り込んでくる様は、昔見たドキュメント映像などとリンクしてまるで映画を見ているようで息がつけなかった。それから物語はどんどんホラー要素を帯びてくる。
スズメバチはどこに逃げても執拗に追いかけてくる。もちろんそれは温度なり匂いなり理由があるのだろうけど、追いかけられる方はそうは思えない。パニックになってもおかしくない。ところがこの主人公の作家はそれを最低限で抑え、体をできうる限りの完全武装で覆い、対決を試みる(適当な材料が物置小屋に揃っていたところは若干うまくいきすぎかも知れないが。)。ここでリアリティを感じたのは、自分の完全武装さ加減に酔い、自分を実際よりも強いと思ってしまったところ。これはなにか自分でもそうなるような気がする。完全武装したら、自分がやられてきたことをやり返したいと思うのが人情だろう。結局大量のスズメバチが撒きちらす毒液にはまったく太刀打ちできず、ほうほうの体で逃げ出すのだけど。
ハチの怖さをよく描写していると思うのが、その不愉快な羽音だけでなく特有の威嚇音。しかもそれを「クリック音のような」と描写する。クリック音がそれに似ているなんて気づかなかった。そして本当に似ている。このあたりは気づきたくなかったことだったけど、これだけ身近な音に例えられると誰しもが想像できるだろう。そしてそのスズメバチの巣で覆われたボイラー室の恐怖も。
この本はスズメバチと戦う主人公の話が実に全体の約7割を占めている。読み始めた時はこれで長編は無理だろうと思ったけど、意外にもその勢いのまま、話は読み手を飽きさせずに続いていく。
どんでん返しのラスト
読んだ本の裏表紙にはあらすじと共に、「ラスト25ページのどんでん返し!」と書いてあった。それを先に読んでしまったから100%の新鮮な驚きはなかったけど(こういうのを書くのは本当にやめてほしい。あらすじはどんなものかと裏表紙を見るのは当たり前なのに、どうしてそこにネタバレ的なことを書くのか。)、それでもそうくるか!と展開を大逆転させた。ただその設定はいいのだけど、この老人が作家のことを自分の分身だと考えてしまう理由の描写が少なすぎて、ちょっと想像がしにくかった。自分が書こうと思っていた小説のタイトルや表紙がまったく一緒だったという理由と、その本の内容がまるで自分に向けているメッセージのようだったというだけでは、ここまで思いつめて狂人化する動機にはいささか弱い気がするのだ。そしてこの作家の書く文章はどうみても若者向けで、この70過ぎの老人が好みそうとも思えない。自分の不遇な人生と成功している相手への嫉妬で狂人となる例もないことはないけれど、もうすこしこの気の毒な老人の背景の描写が欲しいところ。どうして苗字が一緒なのかも分からないし。また、実際に入れ替わるときも普通に相手を刺し殺すだけで、しかも簡単にあっけなく死んでしまう。ここの描写は約2ページのみに留まっている。余計な説明は確かにいらないけれど、このあたりはもうすこし綿密に読みたいと思った。妻との確執もよくわからないし。確かに「大どんでん返し」には違いないのだけれど(今までハチと戦っていたのはおじいちゃんだったんだ!という驚き)、どうも詰めが甘い気がする。スズメバチとの戦いは実に詳しく描写されている分、ここに来てやけにあっさりとしてしまったと感じずにはいられない。
貴志祐介の文章の印象
彼の書いた本で読んだことがあるのは「13番目の人格ISORA」、「悪の経典」と「鍵のかかった部屋」くらいだと思うけど、彼は人の悪意の描写がうまいように思う。「悪の経典」はまさしくそれの本領発揮だった。読んだあとに気分が悪くなるくらい、悪意を詳しく描写する。だから彼の本を読むのは気分を選んだ方がいいように思うけれど、今回の「雀蜂」に関してはそのようなことはなく、軽いサスペンスホラーとして楽しめた(もしかして彼の悪意の描写が、今回はスズメバチの執拗な描写に成り代わっただけなのかもしれない。)。また彼の文章の特徴として、句読点、特に句点が多いように思う。今回の「雀蜂」は、その句点の多さがプラスに働き、余計息のつけないような「煽られ感」が出たように思う。
最後に、この本にはスズメバチと戦うサバイバル術がたくさん出てきて話に真実味を持たせているけれど、私はそのうち何一つも試してみようとは思わない。
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