媚びないエロスの魅力
エロエロのギトギト
本作の絵を見て、まず思いつく言葉がこれだろうか。登場人物たち、特に女性キャラの肉感たるや、もうムッチンムッチン過ぎて目眩がする。丸まった猫ばりのサイズの胸、体にまとわりつく着物、頻繁な裸描写……まぁ、すごい。主人公の設定もすごい。なんと、春画師。すげえなおい。江戸時代の露骨な性を題に取り、肉感香る迫力で描かれる本作「当て屋の椿」は、しかし、昨今青少年の間で人気のエッチなだけが売りの凡百青年漫画とは一味、いや二味は違う特異性を兼ね備えていることは、本作を手にとったことのある皆さんが知ることだろう。本作は、確かにエロチックな雰囲気が全編に渡り横溢している。女性キャラは無闇に胸が大きく、あられもない姿でアフンアフンと喘ぎまくる。なぁんて聞いてしまう分には、やっぱり凡百エッチ漫画と変わらんではないか、と誤解される方もいるかもしれない。実際、それ目的で本作を手に取った方も多いのでは?しかしながら、本作の性描写は基本的に、しっかりとした「筋」を持って描かれており、何よりも「当て屋の椿」そのものが持つ独特の臭気を形成するのに一役も二役も買っている。では、その「筋」とはいったい、なんなのであろうか。
迫力が違います
本作「当て屋の椿」の性描写において、まず一段と際立つものは、極端なまでの迫力である。その迫力は、少年漫画のスケベシーンのような、ただ鼻の下が伸びる程度のものとは質が違うのは当然だが、だからといって、名作官能小説のような鼻血の出るエロティクスとも甚だ違う。この迫力の正体を一言で表現すると、こうなるだろう。すなわち、「グロ描写のようなエロ描写」。本作「当て屋の椿」は、やはりというかなんというか、グロ描写も恐ろしく多彩である。初っ端から人体真っ二つやら耳切りやらから始まるし、犬の牙だの親の骨パンチだの、ネジの飛んだ秀逸さを備える、生理的にクる凄惨描写が目白押しだ。そして何よりも大切なことに、そんなグロテスクさが、明らかに種類として、同作内のエロ描写と同一のものなのだ。性へのスタンスが、GANTZなどの一般的青年漫画とは明らかに一線を画している。エログロなどとはB級映画でも軽く言われる要素であるが、本作のこれこそが、恐らくは真のエログロというやつだろう。エロもグロもある、ではない。エロとグロが、同一の軸に存在しているのである。そういう漫画を筆者はもうひとつだけ知っている。「ザ・ワールド・イジ・マイン」だ。しかしながら、そちらはもうあまりにも絵ヅラが汚すぎて、性が兼ね備える「魅力」というものがまるで表現されていない。もちろん、それはそれですごいことなのだが……「当て屋の椿」はとりあえずは、登場人物たちが皆、美しい。そして、だからこそグロテスクなまでの性が際立つのだ。童顔の女性キャラクターたちから染み出してくる肉感の不釣り合いさ、異常さ、恐ろしさ、そして、似合わぬからこそ表れる、真に迫る力、すなわち迫力。それが全編に渡って匂いのように漂い続けている……これが、「当て屋の椿」を象る、独特のエロスの正体である。
秀逸な表現力
画に迫力のある漫画を描くのであるならば、センスというのは何にもまして必要なものである。逆に言えば、センスさえあれば、画力はそこそこほっといても構わないだろう。「進撃の巨人」がいい例である。あの作品は、巨人のコミカルながらもおぞましいデザインが、明らかに低い画力を上回った結果世にウケた作品だ。対してこの「当て屋の椿」は、メジャーさであればおそらく勝負にもならないが、センスに関しては匹敵、ないし上回るものを持っていると表現してもいいだろう。しかも、そこに画力までキッチリと備えているものだからたまらない。犬の口を顔に貼り付ける少女、歯の抜かれた口に根を張る花、針千本、剥き出しの骨を筆とする少年などなど、いったいどんなセンスしてたらそんな描写が頭に浮かぶのだか……いやはや恐ろしい。ちなみに、本作は一応はミステリーの体を取ってはいるものの、往々にしてトリック部分も吹っ飛んているものだから、推理はしようがないのも特徴の一つ。この点に関しては、最初からミステリーじゃないと思っておけば問題ないだろう。また本作は、言葉の表現も素晴らしく巧みである。優しい雰囲気の人間を「円やか」と表現したり、実直に「愛しとるのです」と叫ばせたりと、枚挙に暇がない。こういった表現力が、本作のテーマとする「露骨な性」を鮮やかに、烈しく彩っているわけであるか、ここに来て重要となるのが、主人公の立場である。
女嫌いの春画師の目
本作の主人公は、とりあえずは椿と鳳仙ということになるが、実質的な中心は鳳仙だろう。タイトルに含まれる名前が主人公のものでないのは、「どろろ」と一緒だ。で、長屋の星こと鳳仙先生であるが、彼は春画描きのくせして、女嫌いである。てか、不能である。そんな彼の画は作中で、「女の中に鬼を見ている」と評されるのだが……その鬼こそが、本作「当て屋の椿」の生々しいエロスそのものではないかと筆者は睨んでいる。だとすれば、これほどまでに読者と視点が共通する主人公も珍しいではないか。というより、本作の描写そのものが、彼の感覚を代弁したものに他ならないだろう。彼にとって、女性がどう見えるか、ムチムチの裸に何を見るか、女とはどういうものかというのが、「当て屋の椿」の画そのものから滲み出してくる。故に読者は、この「当て屋の椿」のあからさまな性に対して、ゴクンと色々なつばを飲まされるのである。この作品構造の秀逸さたるや、近年の漫画で並ぶものなど見たことがない。筆者は最初に、本作のエロスを並とは違うと表現したが、それにはこういった事情があるわけである。簡単に言ってしまえば、この作品において、性は客引きのオマケや、作者の中途半端な下心が生んだ「なんとなくのエロさ」ではなく、明確な「テーマ」そのものなのだ。主人公・鳳仙の感覚を、彼の人間性が持つ歪みや迫力を描くのにあたって、なくてはならない要素なのだ。
媚びない
最後に、本作の魅力の根幹についての話をしよう。本作の作者、川下寛次さんは、名前とは裏腹に、女性の方である。この事実だけでも、本作の全体に流れる独特のエロスの正体は見抜けるというものだ。
本作のエロスの魅力は、単純な言葉で表現してしまえば、「媚びていない」の一言に集約される。この一点こそ、最初に述べた凡百のエッチな青年漫画との決定的な差だろう。そう、本作は、エロを代表する女性キャラクターたちが、本質的に「媚びない」のだ。みな、確固たる己を持って、自らの属性として、その肉体を表現しているのだ。それがもう、どこまでも魅力的なのである。普通のエッチな漫画や、一部少年漫画の女性キャラクターたちは、基本的に、人ではない。男にとって可愛く見えるように造られた、空っぽの虚像である。だからこそ、あれらはどこか気持ちが悪い。画が気持ち悪いのではなく、その裏のコンセプトの嫌らしさが、普通にしょーもないのだ。それなのに、「女はかくあるべし」とでも言いたげに、「魅力的な女の子」として、彼女らは描かれている。それってなんだか、作者のイチモツを見せられているみたいで、気持ちが悪い。女性の体は、男が鼻の下を伸ばすためのものではない。その人間個人の人生を運んでいる、本人の器だ。人の性格とは、誰かに可愛く見せるためのものではない。どこか歪んでいても、切り離せないエゴを孕んでいるものなのだ。では一方で、この「当て屋の椿」はどうだろうか。先ほど筆者は、一部漫画の女性たちを気持ち悪いと表現したが、画の気持ち悪さで言えば、本作のほうが圧倒的に上であろう。キャラの汚さも同様で、登場人物の誰もが余計な歪みを持っている。しかし、それが人というものだろう。それが人というものだから、そもそも、時に下品と評されるエロスは存在しているのだろう。そういう汚れがあるからこそ、綺麗なものが何かがわかるのだろう。あの「醜草」の焼けただれる散りざまが、どこまでも美しかったように……。
媚びは全て、嘘である。媚びのないところにあるエロスだけが、本物の「性」なのだ。
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