ベストエピソードは何か - ぼくらのの感想

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漫画レビュー数 3,135件

ぼくらの

4.334.33
画力
3.33
ストーリー
4.00
キャラクター
3.67
設定
4.50
演出
4.33
感想数
3
読んだ人
8

ベストエピソードは何か

4.54.5
画力
3.0
ストーリー
4.5
キャラクター
4.0
設定
5.0
演出
5.0

目次

漫画史上最高峰の、容赦のない欝設定

「この地球を救うためには、相手の地球に勝たなければならない。だが、勝っても負けてもあなたは死ぬ」これがこの物語の基本設定である。これほどまでにどうしようもないという言葉の似合う物語があるだろうか。この物語の主人公たち……15人の少年少女たちはみな死ななければならない。だがそれ以上に、彼らの戦いには、いやが応にも道連れが伴う。勝っても負けても、死ぬのは10億と一人。負けた地球の人々もまた死なねばならない。人の命を単純に数で測るのなら、勝っても負けても同じ量の人が死に、同じ価値の地球が消し飛ぶ。そんな状況下で、あえて勝つ意味があるのかというのがキリエの悩みであったが、もっともである。結論を言ってしまえば、進んで勝つような意味など一切無いのだ。ダイチやナカマ、マキには勝たねばならない理由があったかもしれないが、負けた地球の上にもまた、それと同じ密度で生きることを願った人々が暮らしていたはずである。結局のところこの戦いは単純な命の取り合い……と思いきや、戦う当人はどっちにしろ死ぬのを忘れてはいけない。どこまでも、正当なモチベーションは存在しない。では、なぜ戦うのか。なぜ勝ちに行くのか。それがこの漫画のテーマの一つである。魂が幼いほどパワーが高いという設定もまた、含意が深い。割り切ることのできない子どもたちが戦えないような地球は、滅びるということなのだろう。そんな、聞くからに重々しい、欝そうな設定であるが、しかし、この物語の本懐は、そんな絶望ばかりでは決してなく、むしろ、この状況から何ができるかというところにあると思う。人が死ぬ物語の中に、幸福はない。モブである誰かが死ねば、その物語はバッドエンドである……実に含蓄深いキリエの発想であるが、この「ぼくらの」という漫画自体が、それへの挑戦にほかならない。

最悪からのスタート

この物語の主人公たちの置かれた状況は、とにもかくにも不幸である。彼らは幸せになりたくとも、一年もない余命が前提条件だ。死が重苦しく前途に横たわり、自分の番はいつ来るのかと身を震わせるしかないまま、しかし、よく考えてみれば、まず勝てる見込みがどこにもない。君が死ねば世界は救われると言われ、惜しまれつつも電気椅子へと誘われるならまだしも、彼らに用意された椅子はコックピットなのである。「可哀想に、君たちは死ぬんだね……じゃあ、まずあいつを倒してね」なんてあまりにも、理不尽。そんなシェークスピアも苦笑いな悲劇のど真ん中で、幸福などあるのだろうか。例えば、ダイチ。彼は勇敢であった。だが、彼は幸福だったろうか?確かに彼は、与えられた条件の中でベストを尽くし、愛する家族を守ってみせた。それは素晴らしい。だが、もし可能であるならば、彼はずっと妹たちと生きていたかったはずなのだ。遊園地へ行きたかったはずなのだ。彼は、それができなかった。結局のところ、いかにもがこうとも、「生きていた場合」よりも幸福になることなど不可能に近い。世の中何事も、命あっての物種である。……が、しかし、このあまりに絶望的な不幸ダービーから、奇跡のウルトラCを決めた御仁がいる。コモである。

ラッキーガール、コモ

コモ……控えめでおとなしい、軍人の娘。自分の死を聞かされた時には一人倒れ、親友のマキが目の前で死んだ時に、膝から泣き崩れていたコモ……(あの時マキが、弟のことを思うあまりに振り向いてもくれなかったのは許して欲しい)。そんな、あまりに深い悲しみから彼女が掴んだ結末はしかし、インド映画も真っ青な奇跡の集大成であった。マキの死をきっかけに認識を改めることができたことが、まずはその一歩である。本を置き、街を歩き回った彼女はまずは世界の素晴らしさを自分にインプットした。これこそが後の、コモ様大往生の下地である。彼女はそれまで、この戦闘に対して前向きになれていなかったのだが、ここにきてようやく決心がつけることができた。心の準備が全く整わなかったカコやコダマとはこの辺りから格が違うのだ。そして次に彼女の上に降り注いだ幸運こそ、彼女の運命を決定づけた神懸かりの奇跡である。コモさん、なんと負けたくせに生き残ったのだ。モジやカンジは魂をすり減らし、アンコなんか足を一本溶かして、勝たなきゃ勝たなきゃ……と必死になってやっと勝利を得たというのに、コモさんときたらあっさりと黒星でマウンドを去ってしまった。なめてんのか。が、しかし、さすがはコモさん、ここからがミラクルである。色々と込み入った事情により、まずはちゃっかりと生き残ってみせたコモさんに軍部がかけた言葉は、まさかの「ピアノ弾いてちょうだい」である。びっくりだ。コモがピアノに対して未練を持っていたことは、マキの父親に演奏会を聞きに来てくださいと頼んでいたシーンからも明らかである。しかし、折り目悪く時間切れ、彼女は腹を決めてコスチュームを着た……はずだったのだが、ここへ来てまさかのチャンスタイム。いったい前世でどんな善行を積んできた魂なのか。間に合わなかったダイチやマチの身にもなってあげて欲しい。一番幼いカナちゃんもまた、願い届かず轟沈であった……唯一マキだけが、ギリギリ弟の、死に目ならぬ産み目を垣間見ることができた程度なのだ。不幸の親玉がチズ(あるいはカコかも?)であるのなら、コモこそが幸福の女神と言えるだろう。そんな女神が参加した作戦、失敗するはずがない。やはり、軍部の大博打は見事成功し、相手のパイロットが会場に現れ、彼女はそこでピアノを披露する運びとなったわけだ。しかしコモさん、この期に及んでピアノがうまく弾けなくなってしまう……なんだかカナちゃんあたりからすればもう贅沢すぎる悩みであるが、よく考えれば無理もない。例えば、こんな状況を考えてみてほしい。野球は日本シリーズ、最終戦の9回裏、ツーアウト満塁、ホームラン打てば逆転優勝……の、場面を迎えてしまったピッチャーの、チャンスではなく大ピンチ。死ねるような緊張感であろう。ストライク一つ投げるのだって余命を燃やす勢いに違いない。だが、それでさえたかが野球である。コモが背負っているものは、優勝ではない、地球なのだ。地球を背負って、彼女は繊細な指使いを強いられたのだ。なおこの時すでに余命は30分を切っている。ジーザス。ピアノなんか弾けるか!と、泣き喚いても誰も文句を言うことはできないだろう。しかし、やはりコモさんは女神であった。初めは緊張からうまくピアノを弾くことができず、顔色にも如実に焦りが表れていたコモであったが、彼女はこの全人類の鉄火場の上でついに、灼熱の時を迎えるのである。コモさんがこの時、心の中で何をイメージしたか……曰く、多幸感。多幸感である。セロトニン出しちゃったのである。なんという精神力か。他の子どもたちと比べれば、その神懸かりっぷりがよくわかる。ダイチは妹の泣き顔を思い出し、カンジは無力感と共に死んでいった。カナちゃんは田中さんの死に打ちひしがれる間もなく自分の命が風前の灯火であることに気がつき、「わたし死んじゃうよぉ」と兄に泣きついて、ウシロにトラウマを植え付けていた。そしてやはりひどいのはチズである。彼女に至っては人殺し、子殺しだ。「お前、お姉ちゃんの子に……」あたりのセリフ、妊娠は母親の状態ではなく命の発生であることを思い知らされ、実に胸が痛む。チズが子どもをイメージしてベビーベッドのカタログを開いていたなんて想像、実に淡々とマチは話してくれたけれど、それってあまりに切ないのではないか。不幸ダービーでは彼女がトップだろう。だがコモはその真逆を行った。彼女の物語は、徹頭徹尾幸運に満ちている。その場でピアノを聞いていた人たちの視点を想像してみてほしい。緊張に顔を引きつらせ、たどたどしかったピアノの音が徐々に優しさを取り戻し、顔にはうっすらと笑みが浮かんでいく、その偉容……忘れてはいけないが彼女、死を前にした中学生なのである。筆者なら失禁できるような神々しさだ。事実、彼女の心に去来した感情は、「神充」である。中学生がそんなこと言うかよと突っ込んではいけない。神充ってなんだよ、初めて聞いたぞ。マチとウシロもリア充にさえなり損なったっていうのに、コモさんったら神充である。自らに迫る確実な死と、自分の守ろうとした地球の運命の瀬戸際にあって、まさかの神充。神に充ちてしまったとあっては、仏陀もキリストも用無しだ。自らの死を前に幸福を感じられるのなら、それはもう悟りである。彼女、中学一年生で悟りを決めてしまった。この不幸せな物語にあって、少年ジャンプもビックリなミラクルフィニッシュである。コモを教祖にしようとする集団の話がチラッと出ていたが、あれもしかしてあの時ピアノを聞いていた誰かなのではないかと勘ぐりたくなるというものだ。そして地味に、人殺しの業もちゃかり父親に託しているあたり、やはりコモさんは持ってる。

集大成としての、コモ編

さて、ここまで長々とコモの話をしてきた。それは、あの話がイマイチ注目されていないと感じたからである。確かに、最初ゆえに衝撃度がピカイチであったワクや、欝漫画というくくりにある以上不幸さで際立つチズ、圧倒的ベストバウトなカンジなどと比べれば、どうにも合間の戦いという雰囲気が拭えない。そのカンジにレッドカーペットを敷かれ、各々に印象的なカナ、マチ、田中さんを侍らせつつ、最後の玉座で大トリを飾ったウシロ相手には流石に分が悪いのもまぁ、頷ける。地味すぎたキリエもまた、地味であるがゆえにテーマ重視の話として、なんだかんだ印象に残りやすいものだ。だが、この「ぼくらの」という漫画の中で、もっとも完璧に最善を掴んだという意味で、コモの話はもっと注目を持って見られても良いと思うのだ。コモ編もまた、「ぼくらの」の一つの集大成といえる。結局のところ、「ぼくらの」とは、追い込まれた子どもたちの物語だ。泣いても喚いてもどうしようもない状況下で、やれることを精一杯やる大切さの寓話である。その意味ではモジの話も思い浮かぶが、彼を幸福と呼ぶことは難しい。彼の戦いは全体でも二番目くらいに厳しかった。今一度コモ編を読み返すなら、きっと彼女の物語が、あまりにもうまくいきすぎていることに気が付くだろう。謎の存在に強いられたぼくらの戦いの中で、唯一戦い以外の方法で地球を救ったコモという存在は、ある意味で最も象徴的であるように見えるのだが、どうだろうか。

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他のレビュアーの感想・評価

「ぼくらの」の世界

パイロットに選ばれる可能性この作品でパイロットに選ばれた子供たちは、みな地球を救うためにロボットに乗ることに対して適性があると判断された子供たちである。しかしそれは唯一無二の特性と言うわけではない。読者の中にはきっと子供たちのだれかに自分と似た性格、生い立ちをしている人物を見つけたことだろう。例えば、やっているスポーツ、家族との関係、地域との関係、学校での立ち位置、守りたいものなどである。それが1つ、もしくは複数当てはまれば、あの子供は自分と同じだとして読むことができる。つまりあの子供たちは自分と置き換え可能なのである。この作品は死と隣り合わせで進行していくが、それは妙に現実味を帯びている。人類の力を超越したロボットどうしが戦うというSFジャンルなのにもかかわらずだ。それは先ほど述べたように、パイロットに選ばれた子供たちは、自分と置き換え可能だからであろう。もし、我々が生きている現実で、ロ...この感想を読む

4.54.5
  • ゆうきちゆうきち
  • 451view
  • 2063文字
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