歴代ガンダムのテーマ「分かり合う」に一つの決着
歴代ガンダム主人公 戦う姿勢フローチャート
ほとんどのガンダムの主人公たちは「戦うのは嫌だ」と言ってきた。
記念すべき第1作:ファーストガンダムのアムロは戦い嫌って脱走したりもするし、スパイを見つけて「あなたみたいな人がいるから」無駄死にする人が出る、と断罪する。しかし「戦争を終わらせる」という発想はあまりない。最終話になって「ザビ家の統領がわかるんだ」という発言もあるが、実際に戦いの現況=ザビ家を倒しに行く、という行動はせず、シャアとの攻防の後は仲間の救出に徹している。ある意味それこそがリアル戦争ものとしてブレイクした理由ともいえるので、一概に良い悪いという話ではないが、単純化すれば「戦争は嫌だけど生き残るには殺すのはやむを得ない」「自分や仲間がどう生き残っていくかが大事」というスタイルだ。
ここで、「戦う姿勢」分類するためのチャートを作ってみた
ガンダム主人公 戦う姿勢チャート
問1:戦うor戦わない
問2:殺すor殺さない、
問3:戦闘に終始するor戦いの根源である人物を倒す(殺す)
アムロは左、左、左、これは戦闘員として生きたパターンと言えるだろう。
カミーユ、ジュドーの初戦闘参加はかなり私情によるものだが、その後はアムロと同様の立ち位置で話を進めつつも、最終的に戦いの現況を作っている人物を倒す、という働きをし、問3についてはおおむねこれがその後のガンダムのセオリーになる。
これは上記フローで言えば左、左、右となり、いろいろ個々の事情はあるが形としてはヒーロー系と呼ぶことにする。
SEEDのキラのように、悩んで、泣いて、でも戦いはやってくる、仲間は守りたい、殺したくないのに・・・そして不殺に至る、というパターンもある。ユニコーンのバナージも方向としては同じだろう。これはフローでは左、右、右で、草食系ヒーローとでもしておこう。
Wのヒイロやオルフェンズの三日月のように「戦うことが俺にできること」として、ひたすら軍事力としての自己に徹底するキャラもいる。
これは形としてはアムロと同様の戦闘員系かカミーユ、ジュドーと同様のヒーロー系だ。
ダブルオーの刹那も最初はこのスタイルだった。1期では「世界の歪み」を見つけ、それを殺すことで平和の訪れを願う、という完全なヒーロースタイル。
しかし、彼には一つの違いがある。
絶対に戦わないマリナが、行動は自分と対極にありながら、同じ平和を望んでいる、と知っている点だ。俺はこうすることしかできないけどあなたなら違う方法を見つけられるだろうか、と希望を託して第1期は終わる。
そして第2期でまさに戦わずに分かり合う道がダブルオーライザーによって示される。相手の脳に直接語り掛けることで理解しあい、戦いを終わらせる、という道だ。そして劇場版、ダブルオークアンタは最初から対話のための機体として登場し、異生命体との対話を成し遂げる。不幸な出会いでお話の終盤近くまで戦いは続くが、話し合えば終わる、というラストも象徴的と言えるだろう。
彼はガンダム史上初めて別のフローチャートを必要とする主人公になり、アムロ達の悩みにも明確な答えを打ち出した。
戦わない―殺さない―話し合いで戦闘を終結させる、という道だ。
エセ平和主義者、キラ、ラクス
前述のキラ、バナージはキャラクターとしては共感を得るが、彼らは大きな矛盾を孕んでもいる。あくまでも「俺は殺さないけどね」「殺すのは必要最小限にしとくね」なのだ。
「俺は殺さない」は見てわかる通り、キラ自身は不殺主義だが並んで戦っているアスラン、ムウはためらうことなく敵を殺している。バナージもトリントン攻防でロニに戦闘停止を呼びかけるがその間にも他の戦闘は続いており、死者は量産され続ける。
「最小限にしておく」はデストロイのステラをコクピット直撃で殺している点を指している。あまりにも被害甚大な場合はやむを得ない、という事だろうか。
キラについてはもう一点言わなければならない。デスティニーのクライマックスでまだ十分に生きることができたタリアとレイを死地において自分だけ余裕で脱出するのも「命は大事」という彼の主張に全くかみ合わない。「死にたい人は仕方ない」と考えたとしか納得のしようはない。2人にしてみればギルと共に死ぬことを選んだのだろうが、泣きながらでも「生きろ」と説得するのがキラではなかったか・・・レイのテロメアが短いとしても、死が訪れるその時まで精いっぱい生きることが君の使命だ、と言ってストフリに無理やり載せる、とかできたはずだ。
SEED、デスティニーはなんだかんだ言いつつも好きなのでいろいろ言及するが、私はラクスクラインにこそ、マリナのように戦わない道をたどってほしかった。彼女は「平和の歌を歌う」と言いながら戦闘参加し、「武器を取ることは悪しき道かも」と疑問を呈しつつも結局は早期決着のための戦いを選んでいる。
シン・アスカの存在は、不殺に徹したキラでさえも戦いによって犠牲者を生んでしまう、という深い問題提起だったと思うのだが、その要素は生かされず、彼らはひたすら私怨、私情、自衛のために戦闘行為を続けていく。監督や脚本家の想像力の不足なのか、バンダイさんがスポンサーである以上かっこよく敵を撃破するシーンは入れなきゃ仕事にならんのよ、と悪しき資本主義思想の流れを抜け出すことができないのか、私にはわからない。しかし「平和を求める」と言いながら戦闘を続けるラクスやキラって、リアル社会で美辞麗句を上げつつも戦争をやめないアメリカや、国民の生命財産を守るためと語りながら戦争可能な憲法を生み出そうとしている自民党と大差ないように思う
そしてガンダムシリーズを貫くテーマにも決着
今にして思えば、ダブルオーライザーやクアンタで直接対話して理解しあうというのは、方法論ちがえどもファーストガンダムでアムロとララァが提示した人が行くべき未来の実現である。
2期のOガンダムのビジュアルが示す通り、ダブルオーがファーストをリスペクトして作られたのは明らかだ。ニュータイプという概念を生み出したにも関わらず、人が理解しあう未来をちっとも描かない富野氏(描けないのか・・・)に業を煮やしたのかもしれない。
富野氏なりに∀で一つの帰結としたのだろうが、やっぱりわかりあう未来はなかった。
異生命体との接触、理解を経て、刹那がマリナのもとに帰るのは50年の歳月が過ぎてからのことだ。刹那は異生命体と融合して若い姿を保っているがマリナは年老いて目も見えない。ここでご都合主義的に考えれば、(あるいはファンサービスというかもしれないが)異生命体と融合した刹那の不思議パワーでマリナが若い姿に戻る、とか衣服を身に着けない二人が光り輝きながらどっかに飛んでいく、とかいう選択肢もあったと思う。しかしそれをしなかったからこそテーマを貫いた、とも言える。二人を結んでいたのは性愛ではない。平和、人と人が分かり合うことへの願いなのだ。
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