西尾維新が書く、徒手空拳対剣士の大河ノベルのアニメ化 - 刀語-かたながたりの感想

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刀語-かたながたり

4.634.63
映像
4.51
ストーリー
4.61
キャラクター
4.64
声優
4.74
音楽
4.50
感想数
7
観た人
12

西尾維新が書く、徒手空拳対剣士の大河ノベルのアニメ化

4.44.4
映像
4.6
ストーリー
4.3
キャラクター
4.5
声優
4.7
音楽
4.5

目次

12本の完成形変体刀対徒手の主人公

刀語は戯言シリーズ、物語シリーズで有名な西尾維新の作品であり、この作者の作品によくあるキャラクターのメタ発言や商魂がちらほら見られる物語である(ツイッターを匂わせる発言、シリーズになる発言、格闘ゲーム化を狙ったコマンドの考案など)。ちなみに別の西尾維新作品でも、キャラがメタ発言をすることは珍しくないようである(物語シリーズの忍野メメのアニメ化を匂わせる発言など)。

刀語のストーリーを物凄く簡単に要約すると、12本存在する各方面ごとに特化した刀と、完全に徒手空拳の主人公が対決するという内容になる。物語のキモとなる戦闘描写は刀剣対刀剣ではなく、刀剣対素手である。この構想を聞いた知った時にはかなり面白いと感じたものだ、「素手で刀に勝つのか」、と。もっとも、後年になって実際の剣術や武術ではこういった前提は珍しくはなく、むしろ普遍的ということを知ったのだが…。

ちなみにこの作品、テレビ放送では1話1時間、全12話放送なので丸一年間かけての放送スケジュールだったのだが、全話通して見た人は一体どれだけの人数がいることやら。

主人公が最強な作品の一つ?

実際に物語中最強なのは姉の七実のほうかもしれないのだが…、七花も凍空こなゆきに不覚を取ったくらいなので充分最強と言えるのではないだろうか。敵の斬撃をほとんど全て回避し、自分の攻撃は素手で敵を仕留めるほどに強力なのだから。

それにしてもこの鑢一族、対刀剣である以上は対練の時に刀に相当する得物を用いて練習することになると思うのだが、刀を扱う才能が無いのに剣士に勝てる人間を輩出出来るのは一体どういうカラクリなのやら。

 

刀は銃に敵わない?

作品に登場した完成形変体刀の中で、一番強いのは炎刀・銃だと考える。身も蓋もない話になるかもしれないが、刀剣が銃に勝てる状況というのは少ないと思うからだ。時代劇でも剣の達人が最終的に銃に撃たれて死んだり、新撰組の土方歳三が「もう槍や刀の時代じゃない」と言ったのはリアルな事実である。他にも賊刀・鎧も防御面では強そうだが…実は甲冑というのは物凄い重量らしく、一度ひっくり返るとなかなか起き上がれないそうだ。普通の甲冑でさえ数十キロの重量があるそうだから、全身鎧の賊刀・鎧の重量は凄まじそうだ。

そうすると扱いの難しい薄刀・針や重い双刀・鎚などを考慮したら、炎刀・銃が一番強いのではないだろうか。火薬の登場と共に、刀剣が主役の時代は終わりを告げたのかもしれない。

 

作品中に見られる剣術的リアリティ

主人公の鑢七花を始め、鑢一族は才能が無いために刀を使えないという設定である。その理由で虚刀流開祖・鑢一根が徒手にて刀剣と戦う流派を作ったということになっている。まぁ真っ当に考えれば、まったく武器が使えない人間というのは存在しないのだが。

だが実際に徒手対刀剣というのは先述した通り、こういった方面の世界ではなにも珍しいことではないのだ。むしろありふれていると言ってもいい。考えてみてほしい、もしも自分の命がかかった場面で素手になってしまったとして、それで無抵抗で敵に命を差し出す人間がいるだろうか。自分一人だけならともかく、愛する家族や大事な人が危ない目にあっていたらどうだろうか?現代はともかく、いつ死ぬとも分からない戦国の世の人間達はこういった絶望的な状況にさえ活路を見出すべく考えていたのだ。

例えば、実際の剣術に「無刀捕り」という技術が存在する。断っておくが、「真剣白刃取り」のことではない、あれは時代劇の殺陣で考案されたモノらしく、実際にやったら99%失敗して大怪我をしてしまいかねない代物だ(指が飛ぶ、頭が真っ二つ、手の平がザックリ切れるなど)。無刀捕りは剣聖・上泉信綱が考案し、柳生一族に伝えられた技術である。しかし、同様の技術は実はあちこちで散見されるかもしれない(一刀流の払捨刀など)。他にも沖縄空手の首里手(しゅりでぃ)も、琉球王朝の武士が薩摩藩の剣士に素手で勝てるように工夫した流派でもあるし、平和を標榜する武道の合気道も剣術の理論で構成された流派である。

このように素手対刀剣というのは何も刀語の中でストーリーを構成する概念の一つではないのだ。むしろ一昔前の武術家などは(昭和の時代の武術家だろうか)、素手で日本刀と戦う想定などを当然としてやっていたそうだ。武術の世界で、相手が武装しているという発想は当然のことなのだ。そういった意味では、刀剣との戦闘というのは人類の戦闘の中に普遍的に見られる概念かもしれない。

 

人と刀が一体となる

「人が刀を使うのではなく、刀が人を作る」ということを刀鍛冶の四季崎記紀は目指したそうだが、この発想は実に興味深い。この考えは、武術が最終的に辿り着く到達点ではないだろうか。

実際に素手での戦闘だと、どうしても映像的にも技術的にも限界がある。映像なら武器があった方が多彩な描写が可能だし、武器を使う人間としては武器を用いると素手よりも扱いが難しいために、集中力を高めて取り組まねばならなくなる。武器よりも素手の方が威力も間合いも劣るのだから、敵を倒すためには色々と制約も出てくるし技術が雑にもなる。こういった良い意味での複雑化が進むと、人間は一段上の存在になれると思うのだ。

武器というのは力任せに扱ったら思うようにならない。脱力して自分の意識を体中と武器に張り巡らし、刀であれば自分と刀が一つになったように意識すると上手くいく。料理で例えると、包丁で素材を切るときに腕の重さを乗せて切ると上手に切れるような感じだろうか。

個人的には刀語の中でこういった「刀人一体」とでも言うべき描写をもっとやって貰いたかったのだが、残念ながらそれほどの量はなかったようだ。あるいは西尾維新が一定以上の武術の技量を持ち、哲学的なテーマを持って刀語を書いていたら、違った印象の作品になったかもしれない。

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