私小説から幻想文学までの距離 藤枝静男“田紳有楽”
切り取られる「私」の物語
赤羽の桜は8分咲といったところで狂ったような美しさを見せるのにはまだ時間がかかりそうだが、行き場のない婦人たちによる情報交換とイエスタディ・ワンス・モアが充満した喫茶店の一席で何となく、そこにこそロマンチックな気持ちを覚える曇り空の春を窓から眺め、ちょっぴりおセンチな私を演じるように藤枝静男『田紳有楽』の書評を書いていました(完)。
…と、こうしてただあったことだけを書き綴った退屈な文章を私小説とは言えない。と決めつけるこの決めつけ、が私小説と日記の違いで、フォーカスという写真雑誌が昔あったが、その名の通りとある出来事にピントを合わせて事件の詳細を綴っていた。
写真雑誌特有の胡散臭さとは、ある一場面を切り取った一葉の写真に何かしらのキャプションをつけることでとある物語を作るところにあるのだが、ではその一体何が胡散臭いのか?本当は、誰にも、写真と文章の相関関係がわからないということがだ。仮にその報道が事実であったとしても関係がない。被写体の信頼、状況から、「ありそう」「それっぽい」「確かに」と思わせるその状態。状態を作るという状態そのものが胡散臭いのだ。そして人間は、ふわふわと胡散臭い「ありそうな物語」、本当の真のリアルなんかではない、リアリティのあるものが大好きだ。なぜなら、自分自身が胡散臭くフワフワと頼りない存在であることを腹の底で皆わかっているからである。
大衆に求められる私小説とは、作者がフォーカスした実体験の中から「ありそうな物語」に仕上げて大衆の好奇心を満たすものである。決して事実そのものではなく、「ありそう」であることが第一なのである。
私という無
そういえば先頃、「特別なリスクを背負ったりしないと面白い文章が書けない」というような意味の文章を読んだ。私小説を読む私たちも、何か特殊な経験とか危険な体験、例えば誰かと不貞行為に及んでエグエグな性交渉を持ちそれを恨まれ実はヤクザの情婦だったその女の彼氏こと指定暴力団員に追いかけられその彼氏を正当防衛とはいえ返り討ちに殺してしまい刑務所に入って…といったような「普通の人の出来ない体験」がなければ私小説というのは意味が無いのではないか?と思ってしまう。当然そんな事はなく、上に書いたように、その作者の視点で「私」達が感じそうな感触認識を切り取るのが「面白い私小説」の条件である。
しかし藤枝静男は、「空気頭」(講談社文芸文庫。田紳有楽と併録)において、私小説をこうも定義する。「自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、それを手掛かりとして、自分にもよく解らなかった自己を他と識別する」「完全な独言」。「面白い私小説」が「私たち」であろうとするのに対して、藤枝静男はここで完全なる「私」であろうとする。すると次は「私とは何か」という問題が出てくるのであるが、端的に言って私とは「私は私である」という循環的な意識そのもの、つまり自意識としてしか表す事が出来ない。
だが、実際に現実の「私」を支え規定し生かすものは私ではない。「私」が脳という肉体によって生み出されるものである以上、私が私であるだけでは飯も食えないし眠る場所も確保されない。そこで「私」は頑張って労働をしたり恋人を得たりその結果賃金家族社会的地位などなどを得て生活をすることで生き延びるのである。私というのは、私なだけでは完全な無であり、存在することが許されない。
私の底の底を覗いてみたら…
やっとここで“田紳有楽”についてなのだけれど、この物語が様々な茶碗や陶器や大蛇などに藤枝静男の「私」を託して分裂させて語られている、というのはすでに様々な読者が語っている自明の読み方である。その「私」の一人であるところの志野筒形グイ呑みは冒頭にこう語る。「われわれはみな中途半端の出来だから、主人はわれわれに値打ちをつけて我をも他をも欺こうとしているのである」
グイ呑みが、古色をつけるために汚い泥の底に自分が埋められている理由を説明するシーン。まさしく人間の生き方そのものの比喩といってよく、「私」は「私」のままでは中途半端な出来で、何かしらの色を泥にまみれてつけなければ何の価値もないという藤枝の人間観が現れている。つけられる価値、それは、泥なのだ。
その後陶器たちは金魚と交わって子を産んだ(ような錯覚)をしたり、大蛇を殺したり、空中を飛んだりするのだけれど、頻発する「イカモノ」のキーワードからも分かる通り、全くこの世は結局「夢、夢、埒もない夢」であって、「わしがここに居るのもおまえがそこに居るのも、嘘か本当かわからないではないか」なのだから、ラストの「ペイーッ ペイーッ(ププー プププー デンデンカーン)」に帰結するほど世界は馬鹿馬鹿しい。
田紳有楽の大きな特徴は、徹底して見詰めた「私」という無と、ゆえにつけられた「泥」も逆説的に無であるという、「私」の底の極限が世界の意味をも無化しているところにある。妄想的でありながら私小説の系譜に位置づけられるのは、「私」からの逃避であるメルヘンチックな幻想文学とは全く異なる雰囲気を纏っているためだ。全体に一見明るくカラリとしてユーモアもあるのだが、それでもそのリアリティはどこか悲しく、まるで「ごっつええ感じ」のコントを見ているような気持ちになるのである。
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