薄幸の作家・中島敦の孤独な魂を表現した名作「李陵」 - 李陵の感想

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李陵

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薄幸の作家・中島敦の孤独な魂を表現した名作「李陵」

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薄幸の作家・中島敦の孤独な魂を表現した名作「李陵」中島敦は、作品が発表され始めてから、一年足らずのうちに他界した薄倖な作家です。
その優れて純粋な作家的な資質が、どのような展開を遂げるのか、限りなく未知なものを持っていた作家だろうと思われますが、彼の死後、残された数少ない作品は、全てが一級の完成品と言ってもよく、特に「李陵」は、見事な結晶度を示す名作だと思います。

意志的で格調高い、彼の洗練された、漢文学の素養に裏付けされた、独自の文体は、その書き出しではっきりと、その素晴らしさを味わう事が出来ます。

「漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向った。阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽确たる丘陵地帯を縫って歩行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、如何にも万軍孤軍来るの感が深い。漠北・浚稽山の麓に至って軍は漸く止営した。既に敵匈奴の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿も枯れ、楡や、ぎょ柳の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ容易に見つからない程の、唯砂と岩と磧と、水の無い河床との荒涼たる風景であった。極目人狼を見ず、稀に訪れるものとては曠野に水を求める羚羊ぐらいのものである。突兀と秋空をくぎる遠山の上を高く雁の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰一人として甘い懐郷の情などをそそられるものはない。それ程に、彼等の位置は危険極まるものだったのである」

中島敦の筆は、敵中深く侵入した李陵の軍の運命を早くも暗示していて、騎兵を中心とする匈奴に向って、歩兵ばかりで奥地深く侵入する事からして、全く無謀というしかありません。
その歩兵もわずか五千、援軍もなく、統率者李陵への絶対的な心腹と信頼というものが無ければ、到底、続けられるような行軍ではなかったと思われます。

このように、戦っては退きながら南行する李陵の軍の悪戦苦闘ぶりについて、作者は重厚で、なおかつ、簡潔で華麗な文体で描写を進め、この後、遂に刀折れ、矢尽き、乱軍の中に駆け入った李陵。
突然、重量のある打撃を後頭部に受けて失神し、馬から転落します。
そして、彼の上に胡兵どもが十重二十重と折り重なって、飛びかかる様がダイナミックなタッチで描き出されています。

このように全編を通して、中島敦が描く文学世界に魅せられ、その一語、一語に込められた作者の魂を切り刻むような言葉の数々に、漢文学の素養に基づく、日本語の緊張感に満ちた、引き締まった文体とその圧倒的な美しさ、華麗さに酔いしれてしまいます。

この「李陵」には三人の重要な人物が登場します。

人間としての、この上ない屈辱に耐え、生きる喜びを失い尽くして、なお表現する喜びに生き、亡父から伝えられた修史の大事業を完成すると同時に、消えるように世を去った司馬遷。

あらゆる人間的な苦悩を甘受して、運命を笑い飛ばしながら、心の奥底に故国への切々たる愛情を秘め続けた蘇武。

超人的ともいえる強さで、己の運命と意地の張り合いをし続けたかのような、この驚くべき意志的な二人に対して、はるかに人間的な弱さを持ち、苦痛と慟哭の果てを体験し尽くして死んでいった、より人間的な李陵。

この三人の人物像が見事なまでの位置関係で、対置されて描かれています。

中島敦は、私が以前読んだ「かめれおん日記」や「わが西遊記」などで、自分を容赦ないまでにさらけ出し、直接、生の形で自分というものを語っていましたが、このように、人生についての青年期の人間特有の"懐疑"、"自虐的な嫌悪と自己分析"----こういうものをいかに、彼の内面において持て余していたかが容易に想像がつきます。

この「李陵」という作品の執筆の動機として、このような自分を何とか越えようという、中島敦の作家としての執念に満ちた意気込みが、文章の背後から強烈に見えて来るような気がします。

つまり、この主人公李陵は、中島敦自身の"孤独な魂の表現"であったのだと思います。

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