血の飛び散る中で交錯するひとりの革命家とひとりの暗殺者のふれあいを、厳しくクールに描いた秀作 「暗殺者のメロディ」 - 暗殺者のメロディの感想

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暗殺者のメロディ

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脚本
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キャスト
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音楽
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演出
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血の飛び散る中で交錯するひとりの革命家とひとりの暗殺者のふれあいを、厳しくクールに描いた秀作 「暗殺者のメロディ」

4.54.5
映像
4.0
脚本
4.5
キャスト
4.5
音楽
4.0
演出
4.5

同じ暴力のあらわれには違いないとしても、「革命」と「暗殺」では、志の次元が開きすぎている。いや、向かおうとするベクトルが逆すぎる。革命は、発展への飛翔。そして、暗殺は、飛翔への拒絶だ。革命は、大きく前へ開いた民衆の燃焼であり、暗殺は、誰を倒すにしても、小さく後ろを振り向いた個人の暴発にすぎない。

しかし、それだけ違う革命家と暗殺者の、その人生には一つだけ共通点がある。血塗られたその一生の、どこにも、彼には安穏はないという一点だ。緊張。彼の肉は、血のソースの中で堅く凝固している。

このジョセフ・ロージー監督、リチャード・バートン、アラン・ドロン主演の「暗殺者のメロディ」は、クールで戦慄を覚える秀作だ。ここには、ひとりの革命家と、ひとりの暗殺者の人生とが、ピッケルの尖った切っ先きで触れ合う、死の出会いが厳しく見つめられている。

飛翔を夢見る革命家の頭脳と、飛翔を拒む暗殺者の腕が、血の飛び散りの中で交錯し、一瞬の後に相分かれて、一人は死の中へ、一人は永遠に晴れることのない生へ、凝固したまま飛び入る。その血のスパークを、しかしこの監督ジョセフ・ロージーは、熱い情念のたぎりではなく、とかげの肌に触れるような不気味な冷たさで、克明に、丹念に、息をこらして描いていると思います。

ジョセフ・ロージー監督が過去に撮った「召使」も「できごと」も、「夕なぎ」も「恋」も、冷たいロージー監督ではあったけれど、この「暗殺者のメロディ」もまた、その際立つ冷たさでこそ、秀作であると思います。そして、この作品でロージー監督が見つめるのは、トロツキーの暗殺です。1940年8月、メキシコシティの郊外で、脳を一撃されて死んだレオン・トロツキー。その死は、その一生と等しく、劇的で、惨烈で、異常で、そして重大なものであった。

このトロツキーとは、ユダヤの血を受けたロシアの一大革命指導者です。南ロシアに生まれて、十代から革命運動に走った。青春は、逮捕と投獄と、脱走と、亡命の、積み重ねだった。激しく、全世界規模での永久革命を目指して、一国革命主義のレーニンと対立した。だか、1917年のソビエト社会主義革命の成功では、ボリシェヴィキのレーニンと固く手を握って、外務、軍事の人民委員会を掌握した。赤軍の創設は、彼に一瞬訪れた、栄誉と権威の絶頂であったろう。

しかし、1924年のレーニンの死は、後継指導者スターリンとトロツキーの確執を、決定的にするのだった。1926年、トロツキーは、政治局を追われた。1927年、彼は中央委からどけられる。同年、党からの除名がやってくる。そして、1929年、彼は国籍まで剥奪されて、安全地帯を外国に求めることになる。ことごとに党の主流に盾ついて、党内分派を糾合しながら、反スターリンの先頭に立とうとした一徹な極左主義者の、これが国と党から言い渡された判決であった。

ヨーロッパは、この頑固で喧嘩っ早い反スターリン主義者に、全く親切ではない。トルコから移っていったフランスでは、追い立てを食らった。イギリスでは、彼を入国させようともしなかった。やむなくノルウェーに渡ったが、ここもヴィザの更新は許さなかった。

こうした逆境の中、トロツキーがメキシコの画家ディエゴ・リベラの招きで、メキシコシティへ亡命できたのは、1937年である。家族は各地で次々と息の根をとめられた。同居できた肉親は、老妻のナターシャと、孫の少年シーバだけであった。

映画はこの状況から、凝視を始めるのです。開巻は、1940年、メキシコシテイのメーデーです。そして、終わりは同年8月の暗殺である。この約4か月が、この作品のドラマとして描かれているのです。

この年の5月。メーデーのプラカードを押し立てるメキシコ共産党労働者は、全て、反トロツキーだ。当然のことだ。だからこその一枚岩の鉄の規律なのだ。そして、そのデモを、群衆の後ろから尖った冷静な顔で見守るサングラスの、ジャック(アラン・ドロン)。彼の脇には、若い女性ギタ(ロミー・シュナイダー)がいる。

ジャックは、さりげなく一人の背広の男と街頭レポしあう。ギタは気付くのかどうか。不可解な男性-------何をするのか、素性も国籍も本名もはっきりしない男-------ギタは、ジャックを不安の裡に疑っている。疑りながらも、彼を冷静に突き放して客観視するには、もう、身体が燃えすぎている。

ギタはトロツキストの一人なのだ。高い塀と鉄扉をめぐらした砦のように警戒厳重な、郊外のトロツキー(リチャード・バートン)邸に自由に出入りできる。翻訳や、教宣活動を手伝っている。トロツキーは、相変わらずセカセカと精力的でえらい鼻っ柱の強さを持つ人物だ。

幽閉の孤立感のうえに、権力から振り捨てられた恨み。そして、ナチスドイツと手を握ったソビエト政権への怒りが、混沌と一つになって、彼の反スターリン感情は、ほとんど狂信的な執念と化しているのだ。早口で秘書に口述を叩きこむ文言は、憑かれたようにスターリン一人への呪詛に燃え立っているのだ。

冷たいジョセフ・ロージー監督の視線。この監督の眼は、こういった人物の群像を眺めわたす時、誰ひとりへも偏らない。特定の誰ひとりを美化しないし、誰ひとりもの弱点をも、容赦しない。実は、この映画で全編、終始、ロージー監督から暖かい敬愛で保護を受けるのは、トロツキーの老妻ナターシャ(バヴァレンティナ・コルテーゼ)だけであろう。生涯を黙々と、夫の激動の人生に従い続けてきた女性。この忍従と献身と殉教の優しい女性を除いては、あらゆる人物が、ロージー監督の冷たい批評の眼を免れないのだ。

ギタは、愛人ジャックの正体から眼をそらすことで、同志トロツキーへの愛に背いている。トロツキーは、その革命への情熱を、狷介な度量の狭さで支えている。強がり。彼は、それを隠すことができない。そして、ジャックは、冷静極まるスマートな外貌の下で、実は迫ってくるトロツキー暗殺の使命の、恐怖を押し殺すのに懸命なのだ。

演技は全て、緻密を極めた簡潔さで、冷たく底光りする。実に見事だ。リチャード・バートンは、感情的なトロツキーになりきるには、少し理性型でありすぎたとしても、思いつめた執念を理論化し続ける一徹な老革命家の孤独の影が、消しようのない貫禄と品格の中にさしていると思う。まさに、名優でなければ創れなかったトロツキー像だと言えると思います。

トロツキーに奉仕するロミー・シュナイダー。この公開当時、いよいよドイツ的になってきたマスクは、トロツキーの事務机の前では、まさに有能で冷徹な実務家になる。しかし、同じマスクは、市内の安ホテルの寝室では、美男子の誘惑へ手もなく吸い寄せられていく肉体の、その熱さをいまいましがる、乾いた焦りに変わるのだ。竹のようにしなるロミーが、ドロンの見せかけの愛撫に、唇を噛みながらも身をよじる時、我々映画ファンの胸には、二人の私生活のかつてが、暗い二重写しで演技の底を横切っていく。

そして、アラン・ドロンの暗殺者。べったりとオールバックの髪をはりつけ、夏でも上衣の下にはチョッキを着込んだ、この気取り屋の二枚目は、女や人前で自分を乱したことがないように見える。しかし、銀縁の眼鏡の下、冷たく据わった瞳の、不安と恐怖-------。ドロンが、ガラスの針みたいに示すのは、暗殺者を駆り立てるエネルギーが決して暗い情念ではないこと、追いたてられた絶望の、裏返しの居直りに他ならない、その真実なのだ。

ロージー監督は、暗く冷たく重い傑作群で、いつも"思いもよらず絶望的な状況へはめこまれてしまった"人間の、にっちもさっちもゆかぬ孤立感を、切り取ってきた映像作家だったと思う。「召使」は、いつの間にか若い執事に弱点の一切を握られているブルジョワのぼんぼんのドラマでした。「できごと」は、気がついたら教え子を汚していた大学講師の話でした。そして、彼の代表作とも言える「恋」は、思慕する年上の女性の秘密を、大人に自白させられる少年の、恐怖でした。

人は、そういう絶望の時、肌に、どんな冷たい蛇みたいにねっとりと湿った汗をかくのか。そして、人はその冷たい脂汗の中で、いかに醜くみっともない俗物の本音を表わしてしまうのか。ロージー監督がイメージする世界は、いつも、それだ。

この「暗殺者メロディ」の登場者の、誰ひとり、この意味での、俗物でない人間はいない。ジャックとギタは、闘牛を見に行く。背に槍を突き立てられて狂う牛。それを見て、恐怖の悲鳴でジャックに打ちかかるギタは、内心では実は、愛人の中に闘牛士を、牛の中にトロツキーを目撃しているのかもしれない。そして、彼女よりももっと、へどが出そうに恐怖しているのは、実はジャックなのだ。牛がべろべろと血へどを吐いて倒れる時、ジャックは、自分がしなければならぬ仕事に総毛立ち、ギャッとわめく想いで、闘牛場の地下トンネルを駆け抜けるのだ。

このロージー監督の演出では、絶えず、外の風景が、孔とか、トンネルとか、アーケードとか、暗い囲みの向こうにある一点の明るさ、として捉えられるのが、最も印象的な特色なのだ。ローマで撮影したにしては、メキシコシティの外景撮影のリアリティは驚くほどだが、そのリアリティが、絶えず暗い穴で、補強されていくのだ。言うまでもなく、この穴の閉塞感と、一点の明るさへの苛立った憧れ。-------まさしく、それこそが、暗殺者ジャックの、老残の革命家トロツキーの、そして女ギタの、一切の「今」だったのだ。

犯行から終段は、まさに流れ落ちるばかりだ。ギタの紹介でトロツキー邸へ出入りする習慣を作ったジャックは、ひたすら孫のシーバと、彼の愛するウサギへ接近していく。この妙に客観的な少年と、ウサギは実に鮮明な映画へのアクセントになっていると思う。そこへ近づくことは、ジャックにとって唯一の人間的な慰めだったのだろう。

そしてある日、トロツキーの書斎で、この老革命家に自分の原稿を読ませながら、若い暗殺者は、硬直した自動人形のようにピッケルの一撃を振り下ろすのだ。この世のものとも思えぬ悲鳴、絶叫。それは、頭から血を噴出させたトロツキーのそれである。そして、駆けつけた護衛や側近に、袋叩きにされて倒れるジャックの、それである。さらにまた、この愛人に、初めて警察で対面させられるギタの、それでもある。「この男を殺して、殺して!」-------。同志を殺された怒りより、自らの愛を弄んだ男への、一切の激情が、この女を狂乱の奔流にしてしまうのだ。

ロージー監督の冷静な視線は、しかも、この血糊の中で、なお乱れない。老妻に手を握りしめられて手術室に入ったトロツキーは、看護婦に髪を切られながら、昏迷の中で、うわごとを言う。「床屋さんも来てるよ」。いつも妻に、髪を切るよう、たしなめ続けられてきた、その負い目が、この巨大な革命家の、最後の気がかりであった。

そして、ジャックは、警察で、激しく素性や動機を問い詰められた時、この青年は銀縁の眼鏡の下で、自分を納得させて、初めて呟くのだ。「そうだ、俺は、トロツキーをやったのだ」。彼が彼の人生に残せた、たった一つの事実の証だったのだ-------。

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