その生きざまに称賛を捧げるしかない
ルワンダ大虐殺の実話
1994年。けっこう最近の話だなーってびっくりするが、20世紀もすぎてきたというのに、人は人を殺しまくってしまうのだと知る。その現実を目の当たりにして、とても悲しい気持ちになったね…ルワンダ共和国の中で起きたフツ族とツチ族の民族紛争。民族の違いに関わらず、邪魔するものすべてを排除しようとしたフツ族過激派の強行に、非難を浴びせても浴びせてもまだ足りないというくらい、どうしようもない罪を犯してくれたなと思う。だって100万人以上の何の罪もない人を殺して、同じフツ族であろうと穏健派の人たちですら殺し、それでも奪われるのは過激派の人間たちの数のみ。…失った分だけ失わせてやることもできず、過激派の命を奪ったところで大事なものは帰ってこない。これが紛争・戦争ってやつなんだなと思い、無関係でいることを申し訳なく思うような、どういうふうに考えて、行動することが彼らのためになるのかって、考えちゃって辛くなる。
ホテル・デ・ミル・コリンの支配人であるポール・ルセサバギナ。彼は、ルワンダの有名ホテルのホテルマンとして、政府や他国の関係各所と顔見知りだった。だからこそ、多少の切迫した状況下であったとしても、ホテルに泊まりたいという人を泊めてあげることができていたし、家族を守っていくことができていた。
しかし、このルワンダ大虐殺の始まりによって、彼の生活は一変。妻がツチ族であったこともあり、フツ族過激派の攻撃の対象となってしまった。幸せだった日々は地獄になり、国外へ逃げ延びるためにどう行動したらいいのか?それを必死に考え続けて逃げ続ける日々が始まるのであった。
有名ホテルのホテルマンとして
実際に、ポールは各国の関係者と信頼関係を築くくらいの立場にあった。だからこそ、自分の身が危険にさらされにくいと考えたし、どうにか罪なき人たちを逃がしてやることができるはずだと、何度も政府や軍に掛け合って交渉をする。ホテルには何千ものルワンダ人を匿い、自分の持ちうるお金や酒などあらゆるものを贈り物として届けて国外への避難を懇願するポール。ホテルへ避難してくる人々にはツチ族もフツ族も関係なく、子どもから大人まであらゆる人たちが押し寄せてきた。ヨーロッパの外国資本で建てられたホテルであるからこそ、国連軍に守られたホテル。しかし、国連軍はルワンダ国内のあらゆる内政に関して、干渉する権利を持てない。外国人なら逃がしてあげられるのに、ルワンダ人は…?
このしがらみの中で、どうにかして彼らを救わなくてはならないと、必死に駆け回るポール。自分の持っている人脈をすべて頼って、活路を見出そうと奮闘する彼が本当にカッコいいし、どうしようもなく胸を打つ。
そしてどうにかフランス軍のつてから政府軍を撤退させることに成功し、一部の避難民が正式に国外へ避難することが決まった。この時の安堵感はハンパなかったし、その分、そのあとまちぶせ攻撃をくらって一時ホテルへ戻らなくてはならなくなったときの衝撃がすごくつらかった。この演出、実話を基にしているからマジであったことなんだろうね…殺した誰が救われるのか?そりゃー過激派にとってみれば、この状況から逃げ出すやつらは自分たちと同じ種族だと思いたくないだろうし、ツチ族なら皆殺しにしてやりたいのかもしれないけど、どう考えたって、人を殺すことを正当化したくないってのが人情だよ。
最終的にポールが「お前は戦犯になるぞ!」と脅しまくって、どうにか匿ってきた全員で国外へ避難できた時は、もはや感無量。生きててよかったねって本気で思えた。
人の屍をリアルに越えていく
R指定なんじゃないの?ってくらい、虐殺は生々しい。だって本当にあったことだし、ポールは今でも生きている人。その目で見たものを表現したこの映画は本当に貴重で、忘れないために語り継がなければならない資料だと思う。
ただ穏やかに暮らしていた人々が、次の瞬間には血をダラダラたらして倒れて、動かなくなっていく。叫び声も静かになり、何千、何万と毎日人が殺されていった。人が死ぬときのあっけなさ、子どもであろうと容赦なく斧を振り下ろす狂気、それが自分の子だったら…と創造できない悲しさ、それを正当なことだと信じて疑わない人の心の弱さ…すべてが痛々しく、文明の進歩した人間の成すことではないと言いたいくらい、どうしようもなく本能的な行動だった。
道路に転がす無数の死体の上を、車で運転して素早く移動しなければならない苦しみ。助けることもできずに、何か直接的に動くことも許されず、とどまり続けなければならない恐怖と苦しみ。いったいどれくらいだっただろう?どんなに考えてみても、そんな状況に片時も陥ったことがない自分にしてみれば、すべて空想の域を出ない。ただとてつもなく怖いことだとは認識できるし、ぞっとする状況だということはわかる。
何より怖いのは、よくことわざ的なことで自分自身を奮い立たせるために、「何人もの人の屍の上に自分が立っている」と表現することがあるが、それがリアルにそうなったとき、とてもじゃないけど立っていられないくらいの恐怖を味わうことになる、とわかった。もはやその言葉は使えないんじゃないかってくらい、屍を越えていく本当の辛さを、いつも忘れずにいなくてはならないと感じられる。
命を守りたいと願うこと
そこまで描いちゃって本当にいいの…?ってくらい、心が痛い物語だったと思う。人が人を殺すとき、どんなホラーやパニック映画でも、まぁそういう反応になるよねって感じの加工が入るが、この映画では全然それどころじゃない。実際にはあっさりと、静かに殺しは遂行され、死ぬ側の苦しみはもっとずっと長く、一瞬で終わることのない時間が流れているのだ。少しずつ気が遠くなり、何も感じられなくなっていくまで、死に直面した時間を過ごす苦しみ…。計り知れないものがあるね…。絶対に自分は味わいたくないし、どうかそんなことを味わう人間が一人でも減ってほしいと願わずにはいられなくなる。
命を守りたいと願うとき、では自分がその場にいてどう行動するべきなのか?この物語の中では、ポールが関係各所と綿密に信頼関係を築いていたからこそ許された行動がたくさんあった。そんなつてを持たない人間は…?どこに逃げ込んだらいいのかもわからない状況のときは…?自分たちに何ができるだろうか?それを常に考え、できればそんな闘いの渦が発生することのないように、一生懸命生きていきたいと思うよね。
100日間で80万人以上を殺した人間たち
最終的には、フツ族過激派の連中が罰せられたことで終わったこの悲劇。最終的には100万人以上が殺され、たくさんの未来ある可能性たちが失われた。裁かれたのはほんの何人かになり、失った代償とは到底思えないほど、そこには傷跡だけが大きく残った。
正義のヒーローなんか絶対いなくて、ポールみたいに人の命を救った人でさえ、1200人以上の人数だけ。失われた数を考えたらほんの一部の人間たちだけだった。それでも、誰かを救いたいと願って、手の届くかぎり助けようと奮闘した彼は、もう絶対ノーベル平和賞と言うしかない。種族関係なく、助け合って生きていける時代はいつになってもやってこなくて、いつもどこかで親同士の小競り合いを見せられる。どこかで全部をなかったことにしなくてはならないし、そんな日が来るにはあとどれくらいの時間と労力が必要なんだろうね…。ポールたちが助かったことよりももっと深い部分で、戦争について考察したくなる映画である。
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