漫画版エヴァを希望のある最終回を導いた大人キャラクター達
目次
どうして漫画版エヴァの結末はアニメ版より明るいのか。
『新世紀エヴァンゲリオン』といえば、1990年代のアニメ界を震撼させた有名作である。未知の敵と戦うロボットバトルアニメとしてのつくりをしていながら、その実は主人公である14歳の少年、碇シンジの内面葛藤を克明に描いた哲学的内容が話題となった。そしてなによりこの作品がアニメ史上類を見ないものとして決定づけたのが、ひたすらシンジが自問自答を繰り返した末、自己を肯定する「だけ」を30分にわたって繰り広げた最終回「世界の中心でアイをさけんだけもの」である。さらに1年後に公開された映画ー「新世紀エヴァンゲリオン劇場版Air / まごころを、君にThe End of Evangelion」(EOE)で実はこの最終回は真の最終回の一部に過ぎなかったことが明らかになった。しかし、そのラストは希望があるとはいいがたい。シンジは他者との触れ合いを望んで、「他人がいる現実」に帰還したものの、帰還先はサードインパクトによって破壊された廃墟であった。隣にいるのは心地よいとはいいがたい他人のアスカであり、彼女とシンジ以外はみな死に絶えた世界である。シンジは泣きながらアスカの首を絞めるが、殺しきれず号泣…、という見終わった後に鬱々となってしまうラストなのである。
そのアニメの漫画版が『新世紀エヴァンゲリオン』である。この漫画版はアニメ版と違い全巻読終わった後も希望を感じることができる。なぜなのかといえば、サードインパクト後の世界観が非常にすがすがしいものであり、漫画版冒頭の「自身がいつ死んでもいいと思っているシンジ」が一回り成長し、世界を自分の意志で変えていこうとする姿が明確に書かれているからといえるだろう。
とはいえ、漫画版エヴァはアニメ―旧劇場版とストーリー的にほぼ一緒。シンジと親友鈴原トウジとの意に添わぬ戦闘に関しては、アニメ版が負傷という結果に終わったにもかかわらず、漫画版ではトウジは死亡し、より残酷な結末となっている。クライマックスもネルフの残虐な占拠から、量産型による弐号機の蹂躙、サードインパクトというはほぼ同じ流れにある。それなのにこのラストの違いは何なのか。
それはサードインパクトの核となった主人公碇シンジが望む「他人」像が原因なのではないかと思う。漫画版ではアニメ版以上にサブキャラクター、とくに大人のサブキャラクターがシンジとしっかり向き合い、彼の自己肯定感を確立していくようにかき込まれていた。エヴァの結末はシンジが他者を信じられるかどうかで変わってくるはずだ。他者とのコミュニケーション、関係づくりを成長させる大人たちが漫画版では非常に頑張っており、その結果がサードインパクト後の世界に反映したのではないだろうか。
以下でそれぞれの大人のサブキャラクターとシンジとの関わりをアニメ版と比較して分析したい。
母・碇ユイからの愛
アニメ版ではシンジの内省世界に限定的に登場する碇ユイ。彼女の問いかけは哲学的でかなり抽象的なものであり、内省世界にいる間はシンジも母の問いかけに導かれ、世界を肯定するような結論を出すこともあるが、現実に戻ると再び抑うつ状態に戻ることが多かった。具体的な母親像はシンジの中に思い出としてもほとんどなく、まさに「いつのまにか死んでしまった母親」なのだ。ユイの過去を語るキャラクターは父ゲンドウをふくめ、ほとんど存在せず、シンジは母の具体像をほとんど知らない。
それに対し、漫画版ではシンジの中に思い出として現実に生きたユイの姿がある。暑い日にふれあった記憶。そして、その時の世界の人々の幸せを守るという約束。内省世界で出てくるユイの姿も明確であり、シンジを見守るメッセージも力強い。エントリープラグに取り込まれたシンジの前に現れたユイははっきりとシンジを見つめて、こう言う。「あなたをいつでも見ている」「自分の道は自分で決めるのよ」。
これらはすべて母から息子の存在を肯定するというメッセージになり、シンジの核を安定させる。もともとシンジが自信がなく、自己肯定感が薄いのは両親から愛された実感がないアダルトチルドレン的な要素が原因だろう。アニメ版ではユイ死亡後の生活があまり明らかにされていないが、漫画版では親戚から冷たい扱いを受けていることがたびたび描写されている。シンジはエヴァに乗ることで、母を思い出し、母に会い、自分を肯定してもらうことができた。漫画版ではこの過程がとても明瞭に書かれている。母からの愛は他者を信じる第一歩につながるのだ。
醜い感情を経てメッセージを伝えるまでに成長したゲンドウ
一方父ゲンドウについても漫画版とアニメ版ではシンジとのかかわり方が異なっている。アニメ版ではただただシンジに冷淡で、どちらかといえば息子に無関心なキャラクターであった。シンジは父に言葉をかけてもらえるだけで嬉しそうであるが、ゲンドウにとってはシンジはユイに会う道具の一端のようだ。親子の会話もほぼない。それに対し、漫画版ではシンジに憎しみの言葉を吐き、世界を破壊するよう勧めるシーンがある。政府によるネルフ占拠の際、自衛隊からシンジを守ったうえで、ゲンドウは「ユイに愛されるシンジが憎かった」と告白している。無関心と憎しみ。一見憎しみを向けられた方がゆがみそうだが、よく好きの反対は無関心といわれるように親から全く興味を示されない子供の方が辛いのではないだろうか。負の感情を息子にダイレクトに伝えている分、漫画版ゲンドウの方が人間としてシンジに向き合っている感じがする。さらに死に際にユイと再会したゲンドウは、妻に促されシンジが生まれてきた時感じた愛しさを再確認して、微笑むことができている。最終的にはサードインパクト最中にシンジに対し「生きろ。自分の足で立って歩け」というメッセージを発しているのだ。これはゲンドウ自身もまた父親として成長している証であり、シンジの成長の原動力となっていく。
父と母からのはっきりとした肯定、これがアニメになく、漫画版に合ったものである。
ミサトの役割はアニメ・漫画版ともに中途半端?
シンジにとっての最も身近な大人といえばアニメ版でも漫画版でも保護者代わりであった葛城ミサトがあげられる。しかし彼女の役割はアニメ版・漫画版でさほど変わりがないように思う。ミサトはいわいるこの作品でのシンジの母親代わりであるが、ミサトのシンジへのかかわり方はどちらも結構不安定なものに見える。両親からの愛情が欠落した未成年シンジの健全な成長のためには、彼を無条件に肯定することが必要になるのだが、ミサトの立場は保護者兼上司。どちらかというと上司としての役割が強くなる。そのため命を懸けた戦闘にシンジを送り出すことが彼女の1番の使命であり、そのためにはシンジの泣き言を受け入れている暇はない。彼女自身が父親をセカンドインパクトで亡くし、復讐に駆られているので気持ちに余裕がないこともあるだろう(漫画版ではトウジの死の後、クラスメートに合わせる顔がないと不登校になっているシンジに「あなただけが辛いんじゃない。みんな辛いけど仕事している」ってそれはないのでは…と思ってしまうセリフがある)。ときに励まし、優しい態度もとるが、この気まぐれな優しさが逆にシンジを不安定にしているようにも見える。さらに死に際の「帰ってきたら続きをしましょう」のキスシーンがあらわしているように、ミサトはシンジを異性として見ているような描写もある。大人になって見直すとエヴァンゲリオンではミサトがシンジに依存しているように感じる描写が多々あるのだ。おおらかなミサトの性格は内向的なシンジの最初の殻を破る役割を担ってはいるが、ミサトにはそれ以上シンジの成長を支える役割は与えられていないのではないだろうか。
対等に接してくれた大人ー加地
それに対し、ミサトの恋人、加地リョウジの役割はアニメ版と漫画版ではかなり違う。アニメ版ではほとんどシンジとの交流はなく、ゼルエルとの闘いにシンジを向かわせる程度の活躍。しかし漫画版での加地はシンジを「サードインパクトの重要人物」として扱い、エヴァンゲリオンの真実や碇ユイが死んだ原因とシンジを向き合わせようとする。そして自分のつらい過去を詳細にシンジに告げ、トウジの死を経験したシンジにそれを糧にした決断を促す。それぞれの真実はシンジが向き合うには重い決断である。しかしそれらはいつかは必ずシンジが克服しなければならないことである。
また、加地の過去は自分の卑怯さを露わにするもの。これを語るのは加地自身にとってもかなりつらいことだったはずだ。しかしこの話をすることでシンジは加地が本気で話していることを感じ取り、また自分に真剣に向き合ってくれていることが分かったはず。加地がシンジを子ども扱いせず、対等に扱っていることがわかるシーンでもある(この点がミサトにかけている部分ともいえる。ミサトは自分の過去の寂しさや復讐心の醜さをシンジにほとんど語らなかった)。このような真摯なコミュニケーションは他者とのかかわりを受け入れるうえで必ず必要になってくるものだ。
碇ユイの死を思い出し、苦しむシンジに対し、「すまない。無理に思い出さなくていい」と寄り添いながら、一方で「真実から目を背けてはいけない」と言う。シンジの気持ちへ配慮しながらも対等に扱ってくれる大人―これは漫画版エヴァに存在して、アニメ版エヴァに存在しなかった存在である。
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