戦場のリアル、だけでなく 兵器開発のリアル!
ガンダム=リアルという言葉のデパート!
1979年の1stガンダム放送以来、我々はそのコンテンツに対してリアルという単語を枕詞(まくらことば)のように使ってきた。
軍隊のリアル、戦争のリアル、人間関係のリアル。
語ればキリがないほどである。
だが、まだ光が当てられていない、リアルを語れる部分があったことを本作は証明した。
兵器開発の裏話やそれに尽力する人々を描く、というリアルだ。
更に本作は、一年戦争開戦からその後半に至る情勢を踏まえた展開が明確に記されており、技術畑の人々のこだわりよりも現場の事情が優先される戦争の理不尽も上手く描いている。
それがこのMS IGLOOシリーズの意味だ。
失敗談がリアルさを増す
1話のヨルムンガンド、2話のヒルドルブ、3話のヅダ、どれも結局は試作機のみで量産化への道を歩むことは無い。
いわゆる失敗作の烙印を押されたメカたちだ。
1話では機動兵器:いわゆるモビルスーツ=ザクが登場していなければ、あるいはヨルムンガンドが正しく評価され、作戦立案上の要素に組み込まれていれば、一定の戦果を挙げたのではないかと思わせるコメントをオリヴァーが発している。
実際にZガンダムで百式の専用装備として登場するメガバズーカランチャーのように、モビルスーツに携行させて機動力の無さを補い、中距離からの狙撃で敵艦隊に大ダメージを与えるという使い方はあったのではないかと思う。
もっとも本作登場時点では200mのロングバレルを有していたので今一歩の小型化が必須ではあったかもしれない。
2話のヒルドルブはこの局面においては戦果を上げているが、Z以降のMSの空中浮遊が容易化した時代には明らかに大局的意味を成さない兵器であっただろう。
とは言え極地戦的にはユニコーンガンダムの時代になっても戦車タイプの兵器は存在しているのだから、あながち悪い面ばかりでもないかもしれない。
兵器であれ、家電であれ、道具というものは多機能に走りすぎると失敗する傾向がある。
現代においてスマートフォンが重用されているのは、その汎用性の高さ故である。
カメラなどのハード的性能、大きさ、軽さは重要だが、一定の基準をクリアしていれば、操作性が最も重要だ。使う局面ごとのカスタム化はアプリケーションを追加していけばいいのだ。
そのような意味では、重厚長大な戦車にMSの上半身を載せるというヒルドルブの発想は、スマートフォンに外側に飛び出すような物理的望遠レンズを付けたり、重低音のスピーカーを標準装備することと同じだろう。
当然それにより重量や大きさが増し、ごく限られたマニアには喜ばれる一品であるだろうが、一般の運用には全く不向きなものになる。
当然これが量産される未来はあり得ない。
一方ザクは、一撃必殺の武装は無いが、その汎用性の高さ故に開戦から終戦まで活躍し続けたのである。
ヒルドルブが一定の戦果を上げたのは相手がザクであったこと、デメジエール・ソンネン少佐の技能と判断力が卓越していたことによるところが大きい、そういわざるを得ないだろう。
第3話のヅダは劇中で明確に欠点が語られているので、その有効性について考察する必要はないだろう。
この回は開発秘話というよりは劣勢を強いられたジオン側の焦りが生み出した幻であり虚偽の名機、という切ない話だった。
とは言え、ヅダは運動性能についてはザクを凌駕しているのは明白で、デュバル少佐が言う通り、一定レベルのパイロットが乗ればその性能を発揮するのなら、立派な戦力だろう。
たまたまヨルムンガンドの項でも話題に出した百式はまさにそれに近い機体であると言える。
明確な欠点があるわけではないが、百式は極端にピーキーな運動性能を出すために装甲を犠牲にしている面が否めない。
対ビームコーティングが時代の流れ、と言われている時に、回避性能を上げることでその処置をしなかった、というコンセプトはまさに時代錯誤とも言えるかもしれない。
ビームが来ても大丈夫、という発想ではなく、死にたくなければビームをよけろ、とパイロット任せにしているのであって、完全にクワトロ級のベテランパイロットでなければ乗りこなせない仕様で堂々とロールアウトしている。
つまり、ヅダも欠点を公表しながら扱いを明確化し、それを実行できるエース級のパイロットに与えられる優秀な機体、という位置づけにすれば、受け取る側もパイロット冥利にも尽きるし、より多い戦果を上げたかもしれない。
もっとも、この時期量産されたゲルググ、リックドムにしても期待された戦果を上げ得なかったのはベテランパイロットの不足によるもの、とアバオアクー戦でキシリアが考察している。
やはりヅダが実戦配備されたとしても、乗りこなせる人材はもはやジオンには無かったようだ。
オデッサ失陥によって資源不足は声高に叫ばれていたが、それにも増して深刻だったのは人的資源の枯渇であり、ジオンが小国であるが故の避けられない悲劇だったのだろう。
今西監督のこだわりが良い具合に出ている
本作の監督はサンライズの今西隆志氏、「装甲騎兵ボトムズ」の続編である「赫奕たる異端」や、松本零士の「ザ・コクピット」の監督も務めており、リアル志向の作品には定評がある。
脚本は大熊朝秀、大野木寛の2名があげられているが、大熊朝秀は監督である今西氏のペンネームなので、ほぼ今西氏の作品と言っても良さそうだ。
今西氏は同じガンダムシリーズで0083STARDUST MEMORYでもメインスタッフを務めているが、0083では恋愛色が濃く、軍事関係のリアルさとキャラクタードラマに整合性は薄く、色々な要素がてんこ盛りのお祭りガンダムに堕してしまった、と私は評価している。
しかしこのIGLOOシリーズはメカの開発が中心で、そこにほのかに見え隠れする人間ドラマ、というレベルに絞っているので、嫌みがなく、視聴後の余韻が心地よい。
MSや兵器中心だが、時々挿入される人間ドラマがいい味を出している
他のガンダム作品の多くは10代から20代前半のパイロットがストーリーの中心を成すパターンが多く、どうしても青臭い展開になることが否めない。
しかし本作は主人公ポジションとも言えるオリヴァー・マイが若いながらも技術屋であり、冷静な観察者の位置にいることが多いため、非常にドラマが大人っぽい。
毎回のエンディングは彼の報告で終わるという形が取られているが、冷静に努めようとする技術屋の側面と、散っていった人々への想いをどのようにまとめるかを悩みながら書いている姿が想像できる。
ここで感情論を表に出さないのもまた本作が追及するリアル志向の一部だろう。
モニク・キャディラックもいい味が出ている。
単なるエリート志向の体制側の人間かと思いきや、1話にして全体の戦局の蚊帳の外に置かれていたことを知るシーンでは素直に作戦撤収を提言するなど冷静な面も持ち合わせている。
どのようにしてギレン・ザビ直属の位置を手に入れたのかは定かではないが、頭脳、判断力に合わせてMSパイロットとしての訓練も受けているようで、やはりただものではない。
悪魔のごとき連邦軍兵たち
本作では連邦軍兵士は徹底して卑劣な輩として描かれている。
2話での鹵獲したザクを使っての物資強奪や、3話の無防備状態のポッドを撃つボール部隊、ヅダを嘲笑するジムのパイロットたち、どこにも歴戦の勇士的なストイックさやドライな職業軍人性が見えず、その点だけは残念である。
結局敵を悪人然として描くと、自軍側が正当であるという論理が成り立ってしまい、せっかく構築したリアルさが削減されてしまう。
連邦軍が誇り高いものである必要はないが、兵士として普通の振る舞いをしている事を描くことで、本作で扱っている兵器や兵士が、優れた側面を持ちつつも主流にはなり得なかった悲しみが増すのだ。
そのような意味で第3話のジムのパイロットを「ウジ虫ぃぃっ!」と言いつつキャディラックが撃墜するシーンは本作には不釣り合いな演出だった。
これによって彼女のヒロイン性が増してしまい、見るものにジオンが正義、連邦は悪という構図を安易に与えてしまった。
感情移入はできるのでキャラを立たせる演出であることは間違いなく、名シーンに上げる人も多いだろうが、私は残念な演出ではないか、と評価する。
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