永遠のガンダムヒロイン、セイラ・マスの完成
目次
一本の作品としての出来は高いとは言い難い!
本作は基本的にアルテイシア・ソム・ダイクンがセイラ・マスという個性を確立するまでの話だ。
一方キャスバル・レム・ダイクンは未だエドワウ・マスであり、シャア・アズナブルとなるのは次回の「暁の蜂起」まで待たねばならない。
シャアは我々が知るあの絶対エース赤い彗星になっていく、という意味で胸躍るものがある一方、優しかったキャスバル兄さんが…と常にアルテイシアが語るように、心優しい男が復讐という目的のために殺人も厭わぬ謀略家になっていく、という意味でスターウォーズで言えばダースベイダーの誕生に相当するビッグイベントである。(仮面もつけているし…笑)
そのスターウォーズになぞらえるなら本作はまさにエピソード2・クローンの攻撃に相当する。
まあ、言うなれば繋ぎの回であって、全体のストーリの中では何かの結果を示したパートではない。
ここではその「悲しみのアルテイシア」というタイトルが表す通り、彼女の変遷を理解しつつ、その人格形成を考察していこう。
セイラの話の前に、演出と戦闘シーンの話
そんなわけで作品としてはどうしても地味である。
1本目の「青い瞳のキャスバル」では無意味なギャグシーンが多く、世界観にマッチしていない演出の連発で、なんじゃこりゃ、と目を覆うような大変な興ざめ作品に仕上がっていたが、本作ではそこは修正されていた。この点では期待外れだった第1話よりは楽しめた。
あまりにも軽くて違和感があったモビルスーツの戦闘シーンについては、今回はそのシーン自体が少なく、保留と言ったところか。
モビルワーカーの格闘シーンは物珍しくはあったが、ガンダムの世界感との微妙なミスマッチはぬぐい切れず、ふーん、とうなづく程度に見えた。
もちろんフルCGによる画像は美しいし、精密だ。
だが、話との連動性が薄いので、凄いね、という感想以外上げようがない。
木立が風に揺れるシーンなどもそこだけ見ると美しいのだが、キャラクターがマンガチックなだけに返ってリアルさを失っているように見える。
例えていうなら、学校のカースト制度を描くサザエさんとか、貧困や少女売春を描くちびまる子ちゃんを見たい人など誰もいない、と言えばわかりやすいだろうか。
そんなわけで演出面では可もなく不可も無し、と冷静に判断する。
セイラの人格形成の背景
ジンバ・ラル登場シーンは相変わらず昭和アニメ感が満載で、バタ臭くて見るに堪えないが、それはそれで、ある意味古い世代を表す演出であり、アルテイシアの目線で見ると、また言ってる、しつこい、もうやめてよ、という気持ちに視聴者をいざなうためだったのか、とも思う。
思慮浅く、激情家で、無能(?)なジンバ・ラルが本当にあの策謀家ぞろいのザビ家とライバル関係の位置を保てたのか、全く見当もつかない。
ジオン・ダイクンについては、テレビ版ガンダムではほとんどそのひととなりが語られておらず、富野由悠季による小説版「機動戦士ガンダム」ではデギンはおろかギレンですらその思想故に一時的にせよ尊敬した、という趣旨の記述がある。
しかし本作でデギンが語るように政治運動のレベルを出ることは無く、独立国家の制定にこぎつけられるような人物でもなかった、という解釈もある。
結局、ジオン・ダイクン本人が建国の理想を引っ張ったのではなく、虐げられた民衆の不満と、ザビ家の権力欲と、ニュータイプという不幸な現状を否定する一縷の希望がミックスされて、時代がジオン公国を生み出した、という事なのかもしれない。
そうであれば激情家のジンバ・ラルの存在も理解できなくはない。
彼はおそらくジオン・ダイクン以上に実践力が無い小人物だったが、早い段階でダイクンに近い位置にいたことと、アジテーション能力のみで側近として君臨したのだろう。
このように分析すればジオン・ダイクンもそれほど高貴な人物ではなく、たまたま提言した人類の革新というテーゼが独り歩きして利用されたという事か。
それが真実であればシャアのザビ家への復讐は少々虚しいものに思えてくるが、その話は次回の「暁の蜂起」で語ることにしよう。
我々が知る1stガンダムのセイラ・マスはどんな人物だったか
個性としては知的で、美しく、気高く、自立心が強い。
外交的には、弱者に対しては優しく接する一方、強者に媚びず体制には静かなシニカルさを持って見つめる。
他人との関係性は深入りせず、一歩距離を置き、自分の過去や思想を声高に語ることはしない。
自身の位置をニュートラルに保つためには、小さな迎合をしておくくらいのしたたかさは持つ、そんな女性だったと思う。
そして、普段は思慮深く生きているにもかかわらず、兄キャスバルの事となると、周りが見えなくなり少々子供染みた行動をとってしまう。
この全てが本作で形成されている。
こうしてセイラ・マスという個性は出来上がった
両親が存命中は経済的にも社会的にも高い位置にあり、わがままも許された。
その時期にもダイクン一家は政争の只中にあったが、末娘であり幼かったアルテイシアのところまで災厄が及ぶこともなく、彼女は愛猫ルシファーとともに美しいものだけ見ていれば良かった。
父ジオン亡きあとは急激に生活が変化し、彼女の身辺に不穏と不安が現れ、甘えた泣き虫な少女が顔を出す。
やがて母アストレイアから引き離され、自分の周りが敵に溢れていることを少しずつ理解していく少女期、彼女は自己の強さを確立していく。
一方テアボロ・マスは養子であることを顧みず、彼女に愛を注いでいたようで、地球亡命後は本来の天真爛漫さを取り戻していく。この3年間は彼女にとってはそれなりに安定した日々であっただろう。
しかしジンバ・ラルの浅慮によって、テアボロ邸が襲撃を受けた後は再び敵の存在を知り、母の死、愛猫の死を迎えて、明るさは影を潜めていく。
そして決定的な兄の旅立ちに続く事故死の報、彼女は何もかも失った。
しかし内心では兄が死んでいないのではないか、という小さな期待も持っており、全てに失望したわけではない。
彼女の心を闇が包み込まなかったのは、その小さな希望と、持って生まれた聡明さと兄と分かち合った気高さがあってこそだったのだろう。
このようにして、クールで時にシニカル、自分から何かに向かっていく創造性は無いが、概ね聡明、そして常に彼女のそばにあった周囲を巻きこんでしまう自分の生い立ちへの恐怖から、他人を近づけない見えない壁を作っていったのだと推理する。
サイド7移民後は静かに暮らし、自立心を持ってセイラ・マスとして暮らしていくことを確立していたようだが、そこでシャアと再会することによって、聡明さと、兄を想う取り残された妹という相反する心に揺れ動くようになる。
一年戦争中に描かれた、兄の事となると我を忘れてしまう彼女を表すシーンを上げてみよう。
ジオン兵から兄の情報を得るために無断でガンダムで出撃する彼女はどう見ても浅はかな女だった。
捕虜コズンから赤い彗星の情報を聞き出そうとする行動も無理があって、知的性を欠いている。
ジャブローで偶然兄と再会する場面では、どう見ても不自然なとぼけブリでミライの疑問を買うが、まあいいや、といった感じでろくなフォローもしていない。
1stだけ見た時、今一つ納得いかなかったこのようなシーンも、今となっては合点が行く。
全てを無くした、と思っていたのにやはり兄は生きていた。
しかし話すことすら叶わず、その上敵軍のエースになって自分の前に現れてしまった。
これなら確かにどんな人間でも平静ではいられまい。
何故あの優しかった兄が積極的に戦争に参加しているのか。
ザビ家打倒などという血なまぐさい望みから、彼を解放する手立てはないのか?
そしてニュータイプが現実のものと知ってからは、それを利用した国造りをもくろむ兄を刺し違えても止める、と口走りつつもやはり兄を攻撃できないセイラ。
彼女は少ない情報と機会の中で期待と失望を繰り返し続ける。
我々が知るセイラ・マスはこのようにして形成されたのだ。
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