「走る」という選択が「村上春樹」を作った。
ストーリー性は低い、しかし「読ませる」村上節は健在
当然本作は小説作品ではないので、一貫したストーリーは無い。「村上春樹」という「小説家」が「走ること」について書く、というテーマがあるだけだ。
ではエッセイなのか、というとそれも少し違う。
中盤の、「僕は小説を書く方法の多くを…」と「もしそのころの僕が…」はマラソンやトライアスロンのレースに参加していない章で、エッセイ的と言えるかもしれない。
ハーヴァード大学の新入生と思われる女の子たちの記述は楽しい雰囲気と表現の瑞々しさがあり村上春樹的文章特有の醍醐味が味わえると思う。
「人はどのようにして走る小説家になるのか」のなかで初期作品、「風の歌を聴け」や「「羊をめぐる冒険」について語る部分はオールドファンには嬉しいプレゼントだ。
(私は個人的に1995年までの村上春樹が好きなので、この部分は読み物として面白く何度も読み返した)
そのように、エッセイではないけれど所々を切り取って適当に読んでも面白い要素もある。
しかし「ランナーズ・ブルー」「老い」などの流れを持つ部分もあり、通して読む作品でもある。
なかなか難しい位置づけだが、小説家を目指しているけど「走る」ことに興味が無い私にとってはやはり中盤のレースに参加しない部分が最も面白く、それ以外はいろいろな感慨をもたらす作品だ。以降はその感慨について書く。
若いころにはなかった新しい闘いが始まる
軽快な書き味の序盤、中盤を経て、サロマ湖の100キロマラソンの記述を境に、文体は少し重くなる。
導入でフリとして記述された「ランナーズ・ブルー」がこの章で具体的に、詳細に書かれる。
この文章の執筆は2005~2007年なので1949年生まれの彼は既に50代中盤を超えている。
学生時代に「ノルウェイの森」を読んで衝撃を受けた私にとって、勝手ながら「人生のいろんな事を教えてくれたアニキ」的立ち位置に祭り上げていた彼が、もはや初老の域に達している、という事実には愕然とさせられた。
人間は当然のこととして歳を取る。当たり前のことだが、いずれ老いさらばえて死ぬ。そのことをこの本はまざまざと突きつける。
単に「走る」というテーマで、私に「生老病死」を突きつける、村上春樹、恐るべし、である。
彼に「ランナーズ・ブルー」が訪れた1996年について
本作の記述は2005年から2006年にかけての出来事がほとんどだが、サロマ湖の100キロマラソンだけは1996年だ。
この作品には一切出てこないが、その前年、1995年は日本社会と村上春樹にとって、記述せざるを得ない最悪のニュースがあった。阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件だ。
何故ここでこれを書くか、それはその二つが、彼にとっては小説家としての作風を変えるほど影響を与えた事件だったからだ。
彼はそれまでの長編小説家というスタイルを離れて地下鉄サリン事件のインタビュー記事を纏めた「アンダーグラウンド」という作品(?)を執筆しているし、「神の子どもたちはみな踊る」という短編集では阪神淡路大震災を取り扱っている。
それ以前は社会にほとんど関わらない人たちを描くことが多かった彼だが、その年以降、個人では対抗しようがない災い、組織悪などを書くようになり、当時はデタッチメントからコミットメントへ、と彼自身が変化を表現した。
私の勝手な予想だが、「ランナーズ・ブルー」は単純にサロマ湖100キロマラソンがもたらしたものではない、と思う。
私の独自の評価ではあるが彼の頂点は87年の「ノルウェイの森」と88年の「ダンス・ダンス・ダンス」である。彼は1995年までに、そこまでの作風を出し切って、作家として一旦枯れたのだ。
その後の「国境の南、太陽の西」は何とか一定の水準を維持した。しかし「ねじまき鳥クロニクル」は明らかにそれまでの創作的ストックを使い切り、彼の作家としての井戸が枯渇した瞬間が見えるくらいに悲しい作品に思えてならない。
作家としての枯渇、日本社会を揺るがす大事件、そして自らの老いの認識、それがミックスされた時期だったから「ランナーズ・ブルー」が彼の中に居座ってしまったのではないだろうか、というのが私の考察である。
実にその枯渇から脱するまでに彼は10年の歳月を要している。
99年の「スプートニクの恋人」、2002年の「海辺のカフカ」、2004年の「アフターダーク」は明らかに彼自身が今後どのように書いていくかを探しながら、しかし結果的には迷走している。
「海辺のカフカ」は商業的には成功しているようだが、私にはかなりちぐはぐな作品に思えてならない。本ページでの詳細の記述は控えるが、興味がある方は本レビューサイトの各作品の私の記事を参照していただきたい。
個人的にはその後の「1Q84」も好みではないが、ちぐはぐさは抜けて、老いを迎えながらも彼なりの作風を再構築したのではないか、と思う。
ランナーとしてもマラソンで4時間を切れなくなり、しかしそのような自分と付き合っていく、という選択を受け入れた、というのも同じことかもしれない。
体力にせよ、作家としての能力にせよ、どこかに頂点があり、それを過ぎればあとは下るのみだ。下り始めた時は必死でそれを食い止めようとするが、しかしどこかの段階でそれを認めていかざるを得ない。この作品はそのような感慨を私に与える。
小説作品の香りを少し味わっておこう
最終章、「少なくとも最後まで歩かなかった」の冒頭、16歳のころに鏡の前で裸になって「自分の身体をしげしげと観察してみた」ことについての記述は「ノルウェイの森」の小林緑が父の遺影に向かって裸体を見せるシーンを思わせ、ニヤリとさせられる。
序盤の「羊をめぐる冒険」の記述は純粋に楽しいし、小説家としての筋肉を調教するという趣旨の記述は「ダンス・ダンス・ダンス」の紀ノ国屋のレタスを思い起こさせる。
老いを迎えていても、彼の表現はやはり素晴らしい。
そう思う一方、20年以上前の作品の影を感じるというのは寂しい事でもあるのかもしれない。
走ることを語る難しさ
「走る」という地味な作業を文章にすることは難しい。オリンピックで金メダルを争うような走りであればまた劇的なシーンも数多くあるのだろうが、市民ランナーのそれはひたすら地味な作業でしかない。
そのような難しい題材を扱いながら、ここまで読ませる彼は、やはり素晴らしい。
Aというレースに出て○時間〇分で走った。この時の天気は…みたいな単なる実録レポートで終わらないところは、さすがである。
そこには「読み物として面白くなければ小説家が走ることを語る必要はない」、というスタンスが見える。ただ走ることを文章にするだけだったら、有名マラソンランナーにインタビューしてライターが書いた方が安くて早いだろう。
「村上春樹という著名な作家はどう走るのか」という切り口であればまた作風は違ってくる。
自分自身を「長編小説家」と位置付ける彼は、「走る」というテーマに基づく彼の脳内の活動をなるべく正直に記述しようとしたのだと思う。
「走る」という行為は、球技や格闘技に比べて劇的な瞬間が劇的に少ない。「会心のスマッシュ」とか「起死回生の一撃」などが記述できないので、ドラマ性が低いのだ。
それは彼のデビュー当時から現在までの作風にも共通していることだと思う。
彼の作品の主人公は英雄やスーパーヒーロー、名探偵ではない。二枚目のタフガイでもないし、超エリートでもない。女性は美しく描かれはするが、胸がすくような愛の奇跡は描かない。緩やかに変化していき、しかしきちんとゴールにたどり着いたときにその小説の全体像が見える、そういうマラソンレースのような作品が多いと思う。
そんな意味で、30代の彼が「走る」という選択をしたことで「村上春樹」は作られていった、と言えるかもしれない。
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