快作「デス・プルーフ」に見る、最高の映画体験
「これが映画ってやつか!!」
突然の大声、大変失礼。私は初めてこの作品を観たとき、劇場で半ばこう叫びかけた。それだけのエネルギーと衝撃、映画好きを突き動かす力をこの作品から感じたのだ。
「デス・プルーフinグラインドハウス」は2007年公開。監督クエンティン・タランティーノ、主演カート・ラッセルのコンビ作。B級映画好きには、なんともたまらないこの作品。くだらないだけで深みなし、考察に値しない?いえいえ、今作こそタランティーノの最高傑作と断言したい。映画の原初的興奮を再現してくれるとんでもない快作でしょう。
ヒップホップ誕生以後の映画監督
今作に限らず、タランティーノ作品が持つ意味合いとは一体何なのか。私は常々、タランティーノが作るフィルムは「最高のヒップホップ映画」だと捉えている。では、ヒップホップとは何か。ヒップホップと聞いてラップを思い浮かべる人がほとんどかもしれない。1970年代後期にアメリカのストリートから生まれたカルチャーたるそれは、様々な音楽やアートを、表現者のセンスでミックスし新たな表現に昇華していくものである。音楽・グラフィックアート・ファッションなど、その表現の幅は広い。DJが痺れたビートを組み合わせ、そこにMCがライムを乗せ、新たなグルーヴを生み出すことで、人々を魅了する。引用と合成。敬意と憧憬。これがヒップホップ精神と呼びうるものである。私は、このヒップホップの精神こそ、新しい創作のカタチだと確信している。0を1にすることのみが独創性を生むアプローチではない。DJの敬意に溢れた引用が、全く新しい感動を私たちに与えてくれるのだ。
そんなDJに当たるのが、タランティーノなのだと思う。彼は世界の映画ファンも認める、一流の映画好き、映画バカとして知られている。彼の作品のあちこちに映画好きを唸らせる小ネタが散りばめてある。西部劇やカンフー、日本の任侠映画にゴダール作品などを思わせるシーンやセリフ群。音楽に関しても、オリジナル曲を用いることは少なく、60年代のロックンロールや名画のサウンドトラックが作品を彩る。まさかの取り合わせに度肝を抜かれることもしばしば。ただ、安直で不快感のある引用はどこにもない。大好きな映画のこういうところ、やりたかったんだよ!という真っ直ぐな気持ちが、感じ取れるからであろう。観ていて心地よい。新たな価値を如何なく付加していく名DJである。
単なるオマージュからの脱出
肝心の作品についてから脱線してしまった。しかし、これは無駄ではない。というのも、今作ほどタランティーノのヒップホップセンスが炸裂し、想像だにしない映画本来の興奮を味あわせてくれる魔性なフィルムはないからだ。
その理由は、今作が制作された意図からも明らかだ。タイトルにある「グラインドハウス」とは、かつてアメリカにあった低予算のB級映画を2,3本立てで上映していた映画館のこと。そのデタラメな面白さを現代のスクリーンに、というコンセプトから生まれたのが今作であった。ヒップホップセンスが問われる大仕事である。
こういったコンエプトもの、特に懐古趣味に傾いたものはどこかわざとらしく、独創性のないことになることが多い。最近の音楽業界にしたって、インディーズバンドの間で、70年代のシティ・ポップブームが来ているそうだ。爽快感のあるギターリフやカッティング、ベースライン。聴いてみても、これを聴くならオリジナルを聴くよ、と思ってしまうようなことばかりだ。表層だけを汲み取ったようなオマージュは、透けて見えてしまうわけである。
タランティーノは、意図的にデタラメなB級フィルムを撮った。ただし、単なるオマージュに留まらずに。
編集点で画面が切れたり、画面の感触はザラザラ。出て来る俳優陣もどこか嘘くさい(最大級の賛辞)。トラック野郎の髪型と風貌のカート・ラッセル。一昔前のチアリーダー姿のキュートな女の子。女の子を落とすため、カウンターで相談する男子2人。どこを見ても見たことあるような、ないような。
筋書きだってあってないようなもの。デス・プルーフ(耐死仕様)の黒いシボレーを乗り回し、口説いた女を次々に恐怖のどん底に突き落とす連続殺人鬼の狂気とその末路。言ってしまえば1行少しで言い切れてしまう単純なプロットである。
そして、最大の見せ場となるカーチェイスシーンは象徴的である。往年のカーアクションへの返答とも言えるこのラスト20分は、最高の2文字しか言葉が浮かばない。CG合成を用いない緊張感溢れる画面が、CG合成使用過多の近頃の映画事情を蹴散らす。しかも、最盛期のスタントを越えてしまう、何ともヤバいアクションをやってのけるのだ。ボンネットの上に素手で捕まり、振り回されるヒロイン。しかも、あの名作「バニシング・ポイント」と同じ、白のダッジ・チャレンジャーで。激しくぶつかり合い、派手にクラッシュするマシンに、ハラハラと痛快で、笑いが止まらない。これは、単なる表面的なオマージュというハードルを悠々と跳び越え、ぶち壊していく。まるで劇中のスタントマン・マイクや、風変わりなヒロイン達が、全てをぶち壊していったかのように。
彼は、名作の様々な要素を分解し、想像だにしなかったアプローチで結合させ、その有機的な絡み合いが、新たな価値を創造する。その要素が映像なのか、セリフなのか、はたまた音楽なのか。彼のフィルモグラフィーを一望して見ても、その方法論は多様だ。西部劇の復権を轟かした「ジャンゴ繋がれざる者」は、タブーとも言える黒人カウボーイを描いた。往年の西部劇と黒人文化との相乗効果は、思わぬ感動をもたらした。「キルビル」の大胆なミクスチャは、新たなジャンルを築いてしまったと言っても過言ではないであろう。
表面的なパロディやインスパイアの呪縛から、抜け出ている数少ない作り手として、タランティーノは大いに評価できる。
タランティーノ作品とダイアログ
「グロくて不快」「無駄な会話ばかりで、結局何が言いたいのかさっぱり」タランティーノ作品が嫌いだという人々は口々にこうやって批判する。まぁ、たしかに一理ある。今作もそのグロさ、会話のくだらなさは随一のレベルであることは、認めざるを得ない。ただ、タランティーノ映画を評する際には、別視点からこの特徴を見つめ直すことで見えてくる発見がある。中でも、無駄話の果たす役割に関して、再考することは意義のあることだ。「キル・ビルvol.1」「キル・ビルvol.2」で知った人にとっては、全体の5割を超えて繰り返される無駄話に、驚きと嫌悪感を与えるかもしれない。物語を進めるような、建設的な会話など決して行われないからだ。デビュー作の「レザボア・ドッグス」、出世作となった「パルプ・フィクション」において、その主軸となるのは、劇的な物語の展開というよりは、そのセリフ運びや登場人物の魅力と言える。より軽快に、よりくだらなく。キル・ビル2作で封印した、武器をまた惜しげもなく披露してくれたのが今作である。
彼は、インタビューでよく述べているが、脚本執筆のときは、登場人物が勝手に喋りだすそうだ。それを書記となって、ただただ書き留めているだけなのだと。一見関係のなさそうな会話の積み重ねで、語っていくというのは、巨匠・ジャン=リュック・ゴダールにも通ずるところがある。特に初期作品におけるゴダールは、魅力的なミューズに恵まれた。受け取ったインスピレーションを必要に駆られるかのように、フィルムに定着させている。登場人物の交わす言葉はとても伸び伸びとしている印象を受ける。初期の傑作として日本での人気も高い「はなればなれに」から多大な影響を受けて「パルプ・フィクション」が生まれたというのは、あまりに有名な話だ。ゴダールが哲学や愛の苦悩を紡ぐのであれば、タランティーノの紡ぐ会話はあまりにもくだらない?決してそんなことはないであろう。軽口ばかり叩いているが、その言葉の裏に各人が過ごしてきた人生や確固たる人生哲学が透けて見える。瑞々しいセリフと統一感は、2人の天才に通ずるところだ。
無駄話が生み出す最高の映画体験
「デス・プルーフ」の会話で特に印象的なのが、後半パートの主人公、ゾーイ、キム、アバナシー、リーの4人でゾーイの武勇伝を語り合うセリフ群だ。このカフェでのシーン、よく練られたセリフと演出が高い次元で絡み合い、多くの情報を観客は受け取ることとなる。大変見事だと言いたい。カメラは4人を中心に円を描き、ワンカットで順に写し出す。「ゾーイはどんな逆境でも、死ぬことなんてなかった。」ゾーイの魅力を伝えつつ、会話の端々から、それを囲む3人の人柄が見えてくる。ゾーイをかっこ良いお姉さんとして慕うキム。絶対的な信頼を寄せる同志のアバナシー。とにかく純粋で騙されやすいキュートなリー。そして、カウンター席から彼女達を狙う殺人鬼・スタントマン・マイクが彼女達の肩越しに写り込む。単なる無駄話の羅列と思えるこのシーン。殺人鬼が見えた瞬間、観客はスリラー映画だと気づき、くだらない会話の肩越しに緊張感を覚える。これをワンカットで見せるあたり、脚本の段階から計算済みだったのであろう。実に見事である。
そしてここでの会話が、クライマックス彼女達への感情移入と、より作品への高い没入感を生み出している。スタントマン・マイクの追撃を受け、大ピンチを迎えるゾーイ。茂みに投げ出され、彼女の姿が見えなくなり、観客の誰もが最悪の結末を予想する。ところが、ピョンと元気な姿で飛び出る彼女を見て、観客とキムは一緒に大きく叫ぶ。「ゾーイはファッキン・キャット!」と。無事を共に喜ぶあの体験は、映画を観るものにとって何にも代えがたい最高の経験であろう。この最高の映画体験を生み出しているのが、一見無駄と思われるおしゃべりだったのだ。
最後にこれだけは言いたい!
今回は「デス・プルーフ」を軸に、タランティーノについて捉え直すことを試みた。私はこの作品をスクリーンで、ソフトで、幾度となく観返してきた。ラスト、スクリーンいっぱいに映し出される「THE END」と爆音で流れ出すAprilmarch「CHICKHABIT」を聴く度、全てを忘れる。そして、毎度思う。「これが映画ってやつだ!!」と。詰まるところ、映画体験の素晴らしさを説明するには、この映画のことを語らずにはいられないのだ。
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