タッチ論
上杉和也の格好悪さ
上杉和也は、あだち充作品には珍しく、主要登場人物にして、格好悪く描かれている点が非常に巧い。
タッチという物語が真にスタートするのは上杉和也が死んでからだと評価することは充分可能だと考える。生前の和也は超絶イケメンでスポーツ万能、超天才という肩書は一応設定されているが、その具体性に迫る表現は極力最低限に抑えられている。
例えば、和也の定期テストの順位が張り出されて、一見その秀才ぶりが表現されているかのようにも思えるが、その実、対照的に勉強を全くしていない不真面目な達也の奔放な性格、「テストなんてどうでもいいじゃん」的な要素を極めて好意的な印象に描くための布石として設定されている。また、運動会のリレーで和也の足がめちゃくちゃ速いシーンでさえ、和也が早いのは当たり前で、その和也と同じタイム、むしろトレーニングしてないのに一瞬でも和也を抜かしてしまう達也ってめちゃくちゃすごいじゃん、という要素として描かれている。つまり、和也の恰好良い部分というのは、和也が死んでからいざ物語がスタートし、主人公としての立場がより明確になる達也を引き立たせるために、計算して描かれている点が巧い。
対して、和也の恰好悪い部分は、これまたストレートにダサいものとして描かれているのも巧い。南に対して抱きしめてしまうシーンであるとか、「南を甲子園に連れて行くことで先取点を狙います」的な台詞をついつい口走ってしまうシーンなんて、和也の中身は本当に15歳、16歳のリアルな様子のはずなのに、黙して語らない達也のイケメン具合との比較として描かれるから、より一層格好悪く映ってしまう。しかし、それも主役に資するため。この作品は、上杉達也と朝倉南の通過儀礼を描いた作品だと理解するならば、和也がある種の捨てコマとして描かれるのは納得がいく。
監督は格好良い
タッチに対する一般的な意見として時に主張される、柏葉英二郎が登場してから読む気がなくなる、という見解に対して少しだけ物申す。
あだち充作品のご都合主義感は、だいたいの場合が魅力的に作用するのだが、時にネガティブに作用することは否めない。例えば、現在の時間軸における柏葉英一郎の嫁の登場である。兄弟間の確執を描くにあたって、というより、英一郎の隠された極悪非道さを描くにあたって、バイク事故の身代わりの一件以外に、なぜこの小話(といってもコマで絵のみの描写があるだけで、具体的な説明はないのだが。)までも挿入する必要があったのか。野球にかける想いの大きさ、そして、それが奪われたことに対する恨みというものを純粋に描けばよいだけの話なのに、あえてこの嫁の話を挿入することで、兄に対する恨みの気持ちのポイントが若干ぶれる。結局めちゃくちゃ格好良い英二郎のはずなのに、少し女々しさが発生してしまい私はこの点は酷評したい。
ただ、英二郎の登場に対する批判的な見解は、そもそも登場時の英二郎の最悪なふるまいのみを判断の材料にしているのではないか。練習中にビール飲んだっていいじゃない、達也を初対面で殴っていいじゃない、だって、それぐらい明青野球部のこと恨んでたんだもの。そんな英二郎なのに、進行性の目の病気にかかっているのに、野球を愛してるんだぜ。それって登場人物が凄く成長しているわけだし、年下のやつらにそれを教えられて、そして、それを受け入れる英二郎って最高に格好いいじゃない。
加えて、この英二郎のスパルタ教育は、明青が甲子園優勝するには必要不可欠だというのは全ての読者が認めざるを得ない部分だろう。英二郎以外の設定で、甲子園優勝という結論は得られないし、この結論を得るために、逆に熱心な教育者を設定してしまっては、ただの野球教則本になってしまう。このあたりは、あだち充の巧さが光る。
住友里子不要論
甲子園出場が決まった後、これまたご都合主義的に見えるアイドルが登場する。これは、甲子園出場までがこの物語の本編で、その後は読者サービスだと捉える人々から、かなり批判的な意見を受けている。
しかし、タッチという話は、達也・南・和也という三人の成長期、そして、そのピースを一つ欠いてしまって、少し立ち止まってしまった二人の未来への一歩を描いた話ではないだろうか。甲子園の出場というのはあくまでその一つの要素でしかなく、人生というのはそういった要素を糧にして進んでいかざるを得ないものであろう。
どんなプロセスを経ても結ばれるに決まっているこの二人を、より前向きな形で結び付けるためには、二人がそれぞれをしっかりとした「異性」だと、つまり、三人という狭い世界で判断するのではなく、より広い世界の中で、お互いを運命の相手だと認識させる必要があるのだ。そういった意味において、圧倒的アイドルである南と対置させる形で、「住友里子」という偶像を設定することは、完璧な計算であると言えよう。こういった、誰しもが幼い頃に経験するような、恋愛に関する通過儀礼を、停止してしまった二人に経験させることがどうしても必要だったのである。
だからこそ、名シーン「上杉達也は、朝倉南を愛しています」という言葉に本当の重みが生まれるのではないだろうか。これは陳腐なラブストーリーではないし、単なる読者サービスでもない。二人の愛には、根拠が作られたのである。
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