野火、胡蝶の夢
極限状態に追い込まれた人間は、周囲の世界をデフォルメして捉える
戦争。それは、人間を極限状態に追い込む。「野火」は、敗色が誰の目にも明らかになった太平洋戦争末期の、南方戦線が舞台である。主人公の一等兵は、持病がある上に、長引く戦闘、連日の強行軍で身体を病んでいる。故に、上官である分隊長に離脱を命じられる。彼が置かれた軍人としての状態。それは、自決用の手榴弾を除くと、戦闘に必須な弾薬さえ、満足な数を持たされていない。食糧、医薬品。全てが極度に不足している。その様な、絶望的なものだった。野戦病院へ向かうところから、彼の彷徨が始まる。
人間は、肉体の制約のもとで、精神に依って世界を捉え、行動する。この状態を、悟性と称することが多い。悟性が、人間を人間足らしめると言われることもある。しかし、肉体的に極限状態に置かれた人間は、肉体と精神の分離、両者のアンバランスを経験するようになる。ここに、悟性は撲殺され始める。
悟性。理性とも近しいこの呼称は、通常、肉体に対峙する精神の働きを代表する言葉の一つとされる。また、その定義には、曖昧模糊とした点も多いとも指摘される。
ただ、唯一、確実に言えることは、肉体が蝕まれ始めると、精神が研ぎ澄まされ始めるという点であろう。ただ、この際の精神の明晰さは、世界をデフォルメして捉える。決して、上述する悟性が優位に立った状態ではない。人間そのものが霊的に高められた所以の現象ではないと言えよう。一等兵の行動は、彼を囲繞する世界を、彼自身の重力に向かって大きく傾斜させた光景に変貌させている。
野火、敵の脅威?それとも、人生の終焉を彩る祝祭の花火
このような彷徨の最中に、彼は目にする。野火を。それは、彼の眼、網膜には、敵の脅威として映る。この時、野火を投影する彼の網膜は、彼の悟性の「受信気管」である。彼は、久しく忘却していいた戦闘の必要性を感じる。痛感する。肉体的な極限状態にありながらも、尚も、悟性は生きながらえるのであろうか。到底勝ち得ないであろうと聞かされていた、戦局の好転を、彼は願う。降伏など、日本人の恥だ。彼は強く、そう思う。
ただ、その様に彼が切望するのも、ほんの、刹那だけに過ぎない。
現実に引き戻された彼の悟性は、崩壊しかかっている。彼は、降伏を熱望する。それでも、「往生際の悪い」悟性が、時折、彼の精神上に顔を覗かせる。彼は、肉体と精神のアンバランス状態に、その存在を置く事を余儀なくされる。幾度も降伏を試みるも、その機会をことごとく逃してしまった彼は、飢えを凌ぐために、自分が、「猿の肉」ならぬ、「人肉を」食べていたことに、気づき始める。彼の悟性は、最初、その事実を否定する。未だ、悟性が、彼の判断にしゃしゃり出て来るのだ。
人の肉を食らう。太平洋戦争末期の時代においても、非常なタブーとされていた行為。否、文明の担い手の人間にとって、ありうべからざある行為。未開の民族のみが有する、忌避されるべき行為。その行為は、 彼を囲繞する世界が、彼自身の重力に向かっての傾斜の度合いを高めるに従って、彼にとって、許容できる行為へと変貌する。恰も、野火が、最早、敵の脅威を示すものではなく、美しい、人生の終焉を彩る祝祭の花火へと変貌を遂げて行くかのように。
最終的に、彼は、負傷したところを米軍に救出され、戦争を生き延びる。そして、精神病院へ収「容され」、彼は、自身が遭遇した、人間としての極限状態である時期を、追想する。追想する彼に、悟性は「戻って来た」のであろうか。否、最早、悟性を定義付ける事自体が、無意味と言えるのではなかろうか。野火。それは、人間が、外象をどのように捉えるのか。その、非常に美しい、一つの象徴なのだ。
人間の悟性は、全て、過去の経験から形成されている
最終章で彼がこのように述べる。「或いはこれもすべて私の幻想かも知れないが、私はすべて自分の感じたことを疑うことが出来ない。追想も一つの経験であって、私が生きていないと誰がいえる。私は誰も信じないが、私自身だけは信じるのである。」。
人間が経験したこと、感じたことは、確固とした現実に基づいたものであるとは限らない。作者が言うように、人間が、その悟性の拠り所とする体験は、幻想であるのかもしれない。また、それらは、現在の事象ではなく、過去の事象であることが多いと言えよう。否、人間の悟性は、全て、過去の経験から形成されていると言っても、過言ではないだろう。
上記のフレーズは、フランスの作家、アニー・エルノーが、彼女の著作「恥(La Honte)」の終章で引用している。彼女もまた、「人間は、遠い過去のある時点の現実が、自身の体験を形造っているのであろう」と述べている。
「胡蝶の夢」。まさしく、人間が信じる存在意義、それは、「夢の中の事象が現実なのか、夢から覚醒した時の事象が事実なのか、皆目、見当が付かない」、そのように言われる通りなのであろう、
野火。それは、胡蝶の夢に他ならない。人間がその存在の拠り所とするものは、かくも、儚いものであることを、「野火」は、主人公を極限状態に置くことで、見事に淡々と、しかし、強烈に描写しているのである。
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