M/Tと森のフシギの物語を読んだ感想 - M/Tと森のフシギの物語の感想

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M/Tと森のフシギの物語

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M/Tと森のフシギの物語を読んだ感想

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演出
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目次

神話的世界と民俗学的世界の融合

この大江健三郎の小説「M/Tと森とフシギの物語」は祖母から昔話を聞いた主人公が自らの在り方をその言語的イメージを内面で何度も反復するという反民俗学的思考実験と、それを神話体系に当てはめて現代における個人の神話を解体しようとしたフシギな物語である。自らの個人的な体験から小説家としてある種の転向を続けている作家が、「万延元年のフットボール」以後、神話的物語やSF的な物語と自らの内面的思考を合わせることをテーマとしてきた結果、奇妙な戦争小説が生まれた。

妄想戦争小説というジャンル

大江健三郎の特徴は戦争を幼少の時に体験しながら、それをテーマにした作品を自らの作家人生においては葬っているということだ。その結果、個人的な経験や体験からその体験を神話的民族的SF的な物語の枠組みででっち上げるという手法を自らのスタンスとして取り、文章自体も初期のころに持っていた詩的言語が衰退し、無駄に読みにくい、平易な文脈を持つことになった。今回の「M/Tと森とフシギも物語」の特徴は戦後に大江が手に入れた世界観ではなく、自らの幼少時代にあったかもしれないまた聞きによる妄想的戦争というライトノベルのような物語を物語の強度として提示した画期的な小説である。彼の妄想的想像力があらゆる神話、民俗学、SF的ジャンルにまたがる「戦争」をテーマとして描きながら、この世にないものを想像すること自体が、祈りであり救いであろうとする意志を伝えようとする。彼の強度の妄想は一体どこからきているのだろうか。

妄想の強度について

妄想と想像の違いは、妄想とは壊す力であり、想像とは者を作る力であるということだ。人の多くは頭の中で妄想する。あの「イマジン」を発表したジョン・レノンの想像してごらんというメッセージは、多くの人がジョン・レノンのパーソナルティの強い妄想を共有しようという部分で非常に有効だろうと思うが、やはり時代に反逆しようとした妄想だったのだろう。しかし彼の妄想の強度はダイアモンドよりも強かった。一方、大江健三郎の妄想は現実に自らの息子の障害という形で生まれてくる。知的障害を持った息子の言葉の一つ一つに意味を見つけ、そしてそれをつなぎ合わせることによりめっせーじとして有効であろうとする作業こそが大江健三郎の「個人的体験」以後の大江健三郎の小説の作法だった。しかし、ジョン・レノンが愛と平和を求めることが未来を見つめ切り開く行為であったのに対して、大江健三郎の生涯の持った息子のメッセージを言語化し続けることは死を見つめ続け、自らの岩を削り取る行為であった。

個人的な体験の死

大江健三郎の岩を削る行為は、自らの詩的言語、また教養的世界を削り、えぐり続ける行為だった。初期の大江健三郎の小説は死を弄び、それをただ通り過ぎていくアルバイトとしてとらえていた。現実的には何にも解決しようのない問題を選び、硬質な詩的言語で弄ぶスタイルは多くの人を魅了した。しかし「個人的な体験」以後、自らの在り方を見つけることになった大江健三郎の物語は過去を書き換えようとするように祖母からの物語を作り変え、解体することにまで手を出すようになってしまった。大江健三郎はすでに死んでいたのかもしれない。大江健三郎自身は自らの死を障害を持って生まれた子供になぞらえる様なことはせず、むしろその障害を持った息子を引き受けることにより未来を見つめようとした。「M/Tと森のフシギの物語」が海外で多くの人に読まれているのはこの小説がとても懐かしい感じがするからではないだろうか。それは日本人の私も感じた懐かしさである。それは太宰治の「津軽」を読んだ時に感じた懐かしさと似ている気がする。太宰治の「津軽」という小説は自らの育ての親である女性に会い、自らの人生に未来を感じることで終わっている。とてもいい話であるし、ファンの中ではこの小説を一番好きだという人も多い。しかし、「津軽」は紀行小説であり実体験からなっている者の、育ての親とは出会っていないのだ。

物語の死をいかに乗り越えるか

実際に津軽まで旅に出て最後の名場面でフィクションを入れた太宰治。そして自ら体験した障害者の親であるという事実をフィクションとして物語ることにより、自らの作家性を否定してでも人生を切り開こうとした大江健三郎。自ら得たいと思った人生=物語を得られなかった作家たちの在り方は奇妙な仕事ではないだろうか。それは自らの物語の死を体験しながらもそれを乗り越えようとする偉業だったのではないだろうか。だからこそよりうまく嘘をつき、それが多くの人を感動させているのではないだろうか。今回読んだ「M/Tと森のフシギの物語」も戦争を騙るうえで、聞いた話でありながら、まるで自分が体験しているような気分になった。そしてその戦争という事態の大きな欠損と個人的な死を乗り越えるかには大きな違いはないのではないだろかと思った。

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