ジャンプに名を残す歴史風ファンタジー巨編
フジリューの一大傑作にして、ジャンプ最後の完全完結作品
漫画家・フジリューこと藤崎竜版『封神演義』は、ジャンプ史においていくつかの大きな功績を遺した。
まず第一に、長期連載でありながら、週刊少年ジャンプにおいては希少な完全完結作品であること。
これは少々補足説明を要するだろう。週刊少年ジャンプは言わずと知れた人気少年漫画誌であるが、同時にアンケート至上主義で知られ、アンケートで評判の悪い作品は打ち切りになってしまうのである。故に、長期で連載したというのは、漫画家として大きなステータスになる。
しかし、近年では長期連載作品が必ずしも名作であるとは限らなくなってきている。
たとえ売り上げがあっても、読者からの評価が低い作品は、人気作であるとは思えないからだ(このあたりの売り上げ≠人気という構図は、関係者ではない筆者の想像でしかないのだが、漫画喫茶やレンタルコミックの存在が大きい気がする)。
だが『封神演義』に限ってはそういった憂慮を挟む必要もなく、名作として誉を保ったまま連載を終了した。物語もグダグダになる訳でもなく、ほぼ全ての伏線を解決してのきっちりとした終わり方。もちろん、太公望jrが登場して次回作に続く訳でもない。連載終了時、人気を示すジャンプ掲載順はかなり後ろであったと記憶しているが、それでも決してつまらなかった訳ではない、と筆者は思っている。『ジョジョの奇妙な冒険』も本誌掲載は後ろだったりするし、大作の完結間際は何故かそんな風になってしまうものなのかもしれない。
悪役史に輝く妲己ちゃん
更に『封神演義』第二の功績として、ラスボスである妲己の存在が挙げられる。
『封神演義』に限らず、90年代ジャンプ作品のラスボスは大きな転機を迎えていた。今までの完全悪的存在であった80年代ラスボスの系譜を外れ、90年代は「理解できる悪役」が求められるようになったのである。「なぜ悪役はこういった悪事をするのか」という読者にも理解できる動機が必須となったのだ。
そこで、『封神演義』のラスボスである妲己の存在は当時のジャンプにおいて極めて異質であった。まず、女性である。そして、序盤では圧倒的なド外道であり(妲己ちゃんのハンバーグといえばあまりにも有名だ)、太公望たちの敵役としての大きな存在感を示す。だがどこかその言動・行動には含みがあり、憎めない。作中一番の美女でありながら常に服装がコロコロと変わり、甘ったるい喋り方をするのもポイントだ。これがテンプテーションか……?
そんな妲己ではあるが、ラストで、ついにその目的が判明する。長い間生き、この世の贅を知り尽くした彼女が最後にたどり着いたのは、「世界のあらゆる物質と同一化する」という目的。
もちろん、妲己の行ったことの全てを肯定できる訳でもないが、この壮大な理由は大きな説得力を持っている。最後の最後で太公望を消滅から救い出したことも、多くの読者の心を震わせたであろう。
妲己の存在は、テンプレートな悪役ばかりがのさばっていたジャンプ悪役史における「理解が出来る悪役」の先駆者であり、いまなお燦然と輝く「魅力的な悪役」なのである。
キャラクターデザインの勝利
『封神演義』の魅力といえば、やはりキャラクターデザインであろう。
先にも述べたように妲己のデザインは独特、かつ目を惹くものであったが、他のキャラクターも同様だ。
謎の二本角がある太公望を初めとして、現代風ともSFともファンタジーとも言えない独特のデザインセンスをしている。原典たる“封神演義”の舞台である中国テイストか? と言われれば全くそんなことがないが、そんなことどうでも良く思えてしまうほど引き付けられてしまうのだ。
どちらかといえば男臭い作画が多かった90年代ジャンプにおいて、フジリューの絵は異質な存在であったが、それが故に独自の個性を放ち、ジャンプにおける新たなファン層を生み出した。
また、『封神演義』はコミックス一冊につきキャラクターひとり、というスタンスを生み出した先駆者のように思う。
当時はこうしたカバーイラストは少なく、本屋のコミックスコーナーを眺めていると、『封神演義』はすぐに見つけることが出来るのだ。
フジリューの画は、独特でありながらキャッチ―という、稀有な才能を持っているのであろうか。
実際、この“抜け感”が良いスパイスになっている
フジリューの絵のタッチは基本的に繊細である。『封神演義』ではトーンを使いすぎて読者からクレームが来たというが、それほど効果線や服装の一つ一つにこだわりを持っているのであろう。
だが、時折フジリューは落書きのような太公望を頻繁に差し込む。あまりにも多すぎて、「やる気があるのか」と憤慨することもあるが、この“抜け感”こそがフジリューの武器だ。
繊細なばかりのページだったら、読者も疲れてしまう。そこを意図しているのかどうかは不明だが、いずれにしてもフジリューの才能の表れというものであろう。
それはストーリーにおいても同様で、『封神演義』では「あえて展開のエレベーターを踏み外す」ということがある。
例えば、太公望の親友である普賢が自爆してしまったり、最後まで生き残ると思っていた天化が一兵士に殺されて死んでしまったり、主人公sideにとって順調な展開になっていると思いきや、「こうくるか!」というびっくりを差し込んでくる。某女性アナウンサーがいまだに天化の死を嘆き、SNSで話題にしているように、『封神演義』のこうしたストーリーの妙はいまだに漫画ファンの間で語り草となっているのだ。
こうして振り返ってみれば、やはり『封神演義』は名作と呼んでふさわしい作品であるといえるだろう。
これ以降、ジャンプではキレイに完結した作品は絶えて久しかった。最近ようやく『NARUTO』や『暗殺教室』『黒子のバスケ』など、作者の意志が尊重されて完結した漫画が増えてきた。そうした作品の結末が、ただ惰性で伸ばしてきた作品より満足感があることは、読者諸氏がよくご存知のことだろう。
願わくば、これからも『封神演義』のように完結する漫画がジャンプで増えていくことを、望むばかりである。
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