愛憎相半ばするラブレター
荷風と谷崎
荷風という作家は癖が強く、特に人間としては嫌な性格としか呼びようがなかっただけに、作品、人物両面から色々なことが語られています。また、断腸亭日乗は近代作家の日記の中でも例を見ない大部なもので、その存在によっても様々な切り方が可能です。同じく小説家らしい小説家だった谷崎潤一郎がもっぱらその小説といくつかのエッセイのみによって評論がされるのに、荷風への言及のされ方の多彩さは好対照と言えるでしょう。
ラブレター
そういう汗牛充棟ただならぬ評論、エッセイ、研究本の中で、この本も「小説」と銘打たれていますが、むしろ評伝と言ったほうがふさわしい内容です。小島政二郎の荷風への思いがあふれる作品ですが、荷風という作家が実に多面的なだけ、このラブレターのような小説も多面的です。
文章はまず荷風の容姿を述べるところから始まっていて、今ではわかりづらい作品以外の作家の魅力(同時代において小説家のファンになる場合、作品以外の要素も絡んでいることが多いのは当然です)をまず読者に感じさせようとしていて、ただの作品論では終わらない予感を漂わせます。小島政二郎が小説家になるキッカケとなったのも、荷風の「あめりか物語」で自然主義の小説などでは味わえなかった文学的感銘を受けたからであり、その敬愛も一生続いたようですが、なにしろその偏屈さは常人の想像を越える荷風のことですから、素直にその尊敬が向こうに受け入れられたわけではありません。
小説家として未完成
愛憎相半ばする筆致で、著者は荷風の嘘つきぶりや、実際に会った時の喋り方の拙さをあげつらい、また時勢や父親の反対を押し切って小説家を目指した勇気、情熱、実行力を褒めています。この辺が一種のお惚気のような気味のあるところが面白く、ラブレターらしく思える所以です。そして結論として、荷風は小説家として未完成のまま終わったと断じています。とりあえず大家になれたのは、若い頃にアメリカで公使館、次いで銀行に勤務した結果、その小説に「人生の味」が出、荷風自身の文学信仰の念が強まったからで、そういう生活の鍛えがなければ大成出来なかったはずだ、と著者は言います。荷風が下手に金満家のもとに生まれ、文筆によって十分すぎる収入にも恵まれたこと、また、生活者として社会に揉まれる経験が少なかったことを、荷風自身のためにも惜しいと思っているのです。
「自分で稼いだ金で実際に一日一日生活するということは、小説家にとって、いや、小説家には限らない、どんな人間にとっても、大事な意味がある」
この辺は菊池寛の「小説家たらんとする青年に与う」と同じ意見であり、いかにも小島政二郎らしいな、と思います。「眼中の人」に詳しく描かれているように、文士としては余りに現実的な菊池の処世術に、芸術尊しの若い小島政二郎は初め大いに反感を覚えます。それが浮世の苦労を重ねるにつれて、菊池の偉さに気づくようになり、その旗下に入ることになります。そういう"生活第一主義"となってしまった著者にとっては、長男として父親の財産を相続してそれまで以上に経済的心配がなくなり、花柳界情緒だの、江戸趣味だの、近代的心理には価値があるとは思えないものに惑溺している荷風の姿は、自分にとって作家になる契機となった人だけに余計苛立たしいものだったに違いありません。
エゴイズムを評価
筆者はその交友関係のせいで荷風の裏の顔についても詳しく、「断腸亭日乗」の記述と、実際にあった事実が異なることをいくつか上げています。荷風の母親に関する記述、あるいは最初の妻との結婚と離婚についても、実際に書かれた対象の人物について詳しく聞かされていて、いかに荷風が嘘つきだったかを辛辣に書き連ねています。
しかし、やはり小説家としての著者らしいのは、その嘘をつく性格や厭味な言動、そして人目を気にしたポーズも、文章力によって芸術に昇華されている、としていることで、
「美しい文章という言葉を得て、厭味とポーズと嘘とが忽ち見事な散文詩と生まれ変わるのである」
そして、荷風のエゴイズムを積極的に評価しています。
引用された文章の見事さ
読者として興味深いのは、荷風が愛人に待合を経営させ、自分が密かに押入れなどに隠れて、客たちの房事を見学していた事実でしょう。この作品が荷風の遺族によって一旦出版差し止めとなったのは、こういう関係者にとっても外聞をはばかる事柄をあけすけに書いてあるせいかもしれません。とにかく、読んでいて荷風の人柄への軽蔑を感じざるを得ないような内容であることは確かです。
それでも、かなりのスペースを取って引用されてある荷風の文章は、その"接すれば損をする"唾棄すべき人格にもかかわらず、ため息が出るような見事さです。荷風の視覚を活かした優れた描写への称賛は個人的に同感で、部分的な引用でも映画を見るような思いがされます。その論考の正しさは、自ら小説家として長年鍛えられてきた著者ゆえのものであり、野口冨士男とも共通するものがあるでしょう。
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