人間は面倒な生き物だ。だからこそ、この映画が生まれたのだ!
誰しもの潜在意識の中に、井上真行の世界観は存在する。
私が大好きな映画監督の一人でもある井上真行監督の映画を、念願叶ってやっと手に取ることができた。この監督の存在は、まだあまり大々的に世間では知られていないかもしれないけれど、彼の世界観にはずっと前から胸をくすぐられる・・・というよりは、胸を突き刺されるような感覚があって、彼の映画を観た後には必ず、良くも悪くも己の存在と向き合わされる。
誰もが気付かないフリをしたい、誰もが気付かないまま通り過ぎてしまいたい本当の自分、そんな胸の奥深くに沈めておきたい闇に包まれた決して美しくない感情を、井上監督はほじくり返してくる。そしてそれはきっと、監督自身が自分で自分の胸をえぐりまくって生きているからなんじゃないかと、私は思う。
この『正しく忘れる』もやはり、またもや私の胸を見事にえぐってくれた。
最大の苦しみは、自分への嫌悪感。
借金の保証人になって自殺した父親の死は、残された家族の生活を一転させた。死んだ父親の分の食事を用意して、コップにビールを注ぐ母と弟。そんな中、黙々と食事を済ませる春子は、母に「よく食べられるね」と呟かれる。春子だって悲しんでいるし、春子だって傷ついている。けれど春子自身も、悲しんでいるのに食欲のある自分、傷ついているのに時々笑っている自分に、嫌悪感を抱いていた。
それから五年が経ち、母には新しい恋人ができて、父親の分の食事を用意することもしなくなった。春子は、家族の中に居たはずの父親を忘れていこうとしている場所から逃げるように、実家を出ていった。春子は、父を忘れてしまいそうになる自分を許せなかったのだ。
もし私が、春子と同じように自分の身近な人間に自殺されたら、その瞬間は辛くて悲しくて苦しくて心が壊れてしまいそうになるだろう。けれど時間が経てば、その悲しみは少しずつ癒えてきて、今までのようにご飯をたべたり笑ったり、きっとできるようになる。周りだってそれを望んでいるだろうし、そうなっていくことは決して悪いことではない。
けれど春子は違った。家族の死を癒すために集うはずの自助グループに、父の死を忘れないために通い続ける。そうすることで、父の死を忘れていく自分を必死にかき消しているのだ。
でもそれは決して父のためではなく、父親の悩みに気付かなかったことに罪悪感を感じていたあの時の自分を忘れていくことに、嫌悪感が拭えないからなのだ。
私は春子に深く共感した。自分で自分が嫌になることほど息苦しく耐えられないものはない。私には、普通にご飯を食べる資格はない。私には、普通に笑ってもいい資格はない。“私はまだ悲しみ続けなくてはいけない、私はまだ苦しみ続けなくてはいけない”そう思っているほうが、春子は楽になれるのだ。
そうやって父の死を引きずろうとし続ける春子に、春子の恋人はこう言った。
「お前はやさしいんだよ。」
けれど春子は泣きじゃくりながらこう答える。
「薄れていく罪悪感と向き合うことがやさしさなら、そんなやさしさが何の役に立つのよ!罪悪感の原因をつくったのは自分なんだよ?!」
春子には出来ないのだ。誰もが気付かぬフリをしていたい感情、誰もが気付かないまま通り過ぎてしまいたい胸の奥底にある本当の自分を、誤魔化すことがどうしても出来ないのだ。だから春子は楽になるために、敢えて自分を苦しみの中に押し込もうとするのだ。
このシーンを観て、私の胸はえぐられた。他人に嘘をついて誤魔化すことは簡単だ。でも自分に嘘をついて誤魔化すことは絶対に不可能なんだ。悲しみや苦しみを上手に忘れることが出来ない人間にとって、それはとてつもなく厄介で、とてつもなく恐ろしい感情なのだ。楽になりたいがために、自分を苦しみに追い込むやり方は、きっと正しくない。
『正しく忘れる』。私はこれこそがこの映画の全てなんだと確信した。
春子が通う自助グループの会員である染谷将太演じる幸雄もまた、病気で亡くなった母の死を引きずって自助グループに通いながら生きている。この幸雄もまた、母の死を引きずるというよりも、病気で痛そうな母を見ることが出来なくてお見舞いに行けなかった自分を引きずっているように思えた。
けれど幸雄は、春子と違って自分を苦しめて楽になろうとする方法をとるのではなかった。幸雄は突然、世界を救おうと作戦を立て実行する。幸雄はそうやって“何もかもうまくいかない自分”をこんな極端な方法で無理矢理にでも抹消させようとするのだ。結局作戦は失敗し、父親と警察に怒られておわる。そんな風に幸雄もまた“正しく忘れる”ことが出来ない人間の一人なのだ。
生きることは、苦しいこと。それすら上手に誤魔化して、私たちは生きている。
この映画に、今回もまた私が胸をえぐられたその訳に、正直、私自身気付いている。春子ほどの大きな葛藤でなくとも、これまでの私の日常にも、こんな風に自分に対する嫌悪感と遭遇し、それに目を背けて気付かないフリをする場面はたくさんあった。楽しくないのに楽しそうに装って相手に嫌われないようにしている自分。人の不幸を耳にして、私じゃなくてよかったと安堵している自分。そんな自分が居ることを、改めて突き付けられた気がした。
けれどこの映画は、そんな自分に向き合って生きることは正しい生き方じゃないんだと、言ってくれているような気がした。正しく見過ごすこと、正しく誤魔化すこと、正しく忘れること、それが出来たらどんなにいいかと、井上真行監督の悶え苦しむ叫び声が聞こえてくる気がした。
そんな、どこまでも厄介で人間臭い井上監督が、私はやっぱりたまらなく好きだ。
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