斬新な神話解釈+プリミティブでセクシーなキャラ+予測不能なストーリー展開=歴史に残る傑作
「マッドメン」が諸星氏の最高傑作であることの分析
70年代中期から後期、本作「マッドメン」、神話解釈冒険ストーリー(?)「暗黒神話」、歴史解釈冒険ストーリー(?)「孔子暗黒伝」を立て続けに発表する諸星大二郎。この3作は宮崎駿を始めとして、のちの漫画やアニメに多大な影響を与えたとして比較検討されている。影響の範囲はウィキペディアなどでいくらでも拾えるのでそちらを参照していただきたい。
上記3作は諸星ファンならずとも傑作とあがめる人が多いが、中でも「マッドメン」は評価が高い。それは何故か?
まず「暗黒神話」は神話解釈に重きを置いており、面白いのだがキャラクター性、ドラマティックさが低い。SFファンは武が56億7千万年後に弥勒菩薩になった、というラストに衝撃を受けるが「感動」度が物足りない。また神話や歴史解釈の説明が中心であるため残念ながら読みにくい作品になってしまっている。
「孔子暗黒伝」はキャラクター性が高く、ハリ・ハラ、孔子、顔回らは文句なく魅力的である。また歴史解釈と神話を結び付け、宇宙の成り立ちを語る部分もすごい。「暗黒神話」同様SFファンには衝撃的な作品だった。孔子と顔回のラストはドラマ性も高く、「暗黒神話」よりは読みやすい作品と言える。とはいえ「暗黒神話」に続くエンディングが単体としては分かりにくい事、女性キャラの魅力が乏しい事などが残念な点である。
そこで「マッドメン」である。諸星氏が得意とする神話解釈はそのままに、しかし「暗黒神話」より格段に読みやすく、「孔子暗黒伝」より圧倒的に面白い。その理由を以下に語る。
4人の魅力あふれるキャラクター
まず挙げたいのはキャラクターの魅力だ。主人公コドワとヒロイン波子、この二人が何と言っても美しい。年齢的には少年少女であり、性的表現はほぼないのだが、にじみ出るセクシャルな魅力がある。セクシャルと言ってもルパン3世の峰不二子のようなセクシーさではない。原始的:プリミティブと言うべきだろうか、生き物としての人間の魅力をニューギニアのボディペイントや腰ミノが最大限に引き出している。また「暗黒神話」の武はあらかじめ決められたルート巡り、最終決断のみを任せられる「役回りとしての主人公」というイメージがぬぐえないのに対し、本作の二人は定められた流れにあらがい、自分たちの未来を切り開いていく。その二人が何度も死の危険を迎えるとき、他の作品にはない感情移入が生まれ、読者は主人公たちと一体になれる。
準主役ともいえるミスバートンと隼人は話を補完する役割がメインのようであるが、それぞれが最後に重要な役割をこなす。神話、世界の成り立ちを語るのは物語の前半はコドワの役であったが、彼が自己の生き方を貫こうとした時、その役割は隼人に移行する。逃走神話の逃げ切る役目を隼人が完成させた時から、と言ってもいいかもしれない。最初は利己的だった彼だがこの交代劇を境に世界の謎に出会い、コドワさえ知らない深淵を覗き見ることになる。偶然なのか狙ったのかわからないが、「暗黒神話」にも隼人という人物が登場し、竹内の秘密の目撃者になるが、存在感の違いは圧倒的で、本作の隼人は第2の主人公ともいえるほど魅力的だ。ミスバートンはコドワと波子の行方を読者の視線で見届け、しかも彼らの未来を好意的に見守りつつエンディングの感動を演出するエディターになる。この主要人物4人を語るだけでも本が一冊できてしまうほどだ。
予測不能でスリリングなストーリー展開
連載開始時は読み切りの予定だったこともあってか、ニューギニアの風習、文化と現代文明の出会い、といったテイストが強い。しかし物語は人類の起源、物欲の成り立ちなどにおよぶ。○○の起源などと言うと説明が多く難しい話になりがちなのだが、本作はアエンとのアクションバトル、隼人とコドワの対決などをうまく絡め、退屈しない展開を作り出している。いや、「退屈しない」などという後ろ向きなものではない。仮に神話解釈を飛ばして読んだとしても、純粋に面白いのだ。前述のコドワと隼人の一騎打ちも見事だが、一度はアエンに敗れ命を停止するコドワ、それを助けようとする波子、傷つき崩れ落ちる守護神ン・バギ、高笑いするアエン、襲い来るナラモの大群、どこを切ってもかつて見たことがない興奮の展開、これほどストーリー性が高い話は諸星作品の中でも珍しい。
「新しい神話」の意味
「大いなるもの」の代弁者であったコドワは波子を助けるために輪を捨てる。「俺は刺青の台ではない」と叫ぶコドワ。コドワは個体の死があったとしても、大いなる仮面の輪の内側にいればある種の不死性がある。しかし彼はそれよりも波子個人を選ぶ。ミスバートンが「彼らは彼らなりの新しい神話を作る」というが、それはどういうことか?それまで一体であった「大いなる仮面」という神、神話の内側にいたコドワ、この図式は崩れた。コドワはもはや単なる人間になった。これはある意味コドワが嫌ってきたキリスト教的構図ともいえるのかもしれない。人間は神と距離を置く、しかし創造主は存在する。コドワと波子の子供たちは「自然の驚異」や「物欲というアエンの罠」と仮面の力なくして戦っていかねばならない。彼らはあるいは力なく敗れるかもしれない。それは死を意味するのか、文明に飲み込まれていくことを意味するのか?しかし、エンディングの手を取り合うコドワと波子は作品中最も美しい。ミスバートンは私が思うそれらの事まで含めて、二人が新しい神話を作っていくことを望んだのかもしれない。
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