愛着障害を抱える子供たち
187分に及ぶ長編ドラマ。10人以上が織りなす群像劇。エイミー・マンの美しい楽曲。衝撃のラスト。この映画を表す言葉はたくさん出てくる。皆さんもそう感じるのではないだろうか。さらにこの映画にはたくさんのテーマが詰め込まれている。「是認」「拒絶」「贖罪」「救い」「どうにもならない運命」など出てくる登場人物がそれぞれの人間ドラマを描いている。挙げるとキリがないし一つ一つを丁寧にみていくと一冊の本になるようなそんな映画だ。今日はその中の一つ「愛着障害」について考察してみる。
愛着障害とは?
愛着障害とは何か?詳しい情報は専門家に任せるとして我々にもわかるよう簡単にまとめると、幼少期に親から愛されなかった故に起きる弊害のことである。子供は親という絶対的に頼れる存在に甘えて愛情をもらう。親もそんな子供を愛し是認する。愛情を示してもらった子供は安心感を抱くことができ、精神的に安定した大人へと成長していく。この関係は子供にとっての「安全基地」と呼ばれている。愛着障害の子供たちはこの「安全基地」がないため強い不安を抱えて生活している。愛着の対象となる存在を他に探したり、全くあきらめてしまったり、欲しい愛着を拒否する行動に出てしまう。
これは大人となった時大きな影響が現れる。自分の人生観や人間関係に影を落とす。浮き沈みを激しく感じたり、人間関係にトラブルを抱えやすくなる。もっとも辛いのは、こうした問題の原因の一つに親との関係があるということを本人は気づいていない点だ。たとえ気づいていたとしても親はまず理解を示さないし、欲しい愛情や是認を得ることはまずない。
愛着障害は主に母親との関係で考えられているが、ハリウッド映画でもありキリスト教の国でもあるので父親との関係で考えてみたい。
この映画の監督ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)もそうした愛着障害を抱えていた人であろう。彼の父親は彼が幼い時に出て行ってしまい他の女性と再婚したのだ。その時の出来事はPTA少年の心を深く傷つけた。自分は「捨てられた」と感じてしまったのだろう。
この映画に登場するセックスセミナーの伝道者のマッキーとクイズ番組の司会者ジミーの娘クローディア、天才クイズ少年スタンリーの例からさらに考察してみる。
愛着障害の特徴
- 自尊心の欠如
愛着障害を抱えている人の多くに「自分には価値がない」という考えに悩まされている。クローディアの例を取り上げてみよう。クローディアは幼い時父親から性的虐待を受けた。それ以来自分を大切に扱わない生き方をしている。麻薬に溺れたり行きずりの男と寝たりしている。まるで自分はドアマットのような存在で踏みつけられて生きているそんな価値の人間なんだと言わんばかりだ。劇中の彼女のセリフはそれをよく表している。
「わたしはバカな女よ。イカれた女なの」
幼少期、親から愛され是認されないなら自分の存在の価値を見出せないことがある。そして自分の人生を自ら傷つけてしまい、自分の価値をさらに低くしてしまう負の連鎖にかかっている。
- 他の人への愛や信頼の欠如
親からの愛着が得られなかった場合、親との確執が生まれることがある。この時に愛着に対する心を閉ざしてしまい、誰に対しても愛着を示さなくなる。マッキーはその典型的な例といえる。彼は女性を支配しようとしている。物のように扱い、自分の方が上であると考える。人間関係を上下で判断するのだ。誰も本当の意味で愛せないし信頼もできない。愛や信頼関係に上下はない。この方法では異性との親密な関係は長続きしない。それが彼をより一層支配することに拍車をかける。
この原因となるのが父親の存在だ。父親は彼が幼いころ家を出てしまった。(PTAの人生を反映した設定となっている)母親は夫の帰りを待ったが彼が14歳の時にガンで亡くなった。自分と母親は「捨てられてしまった」と考えただろう。インタビュアーから自分の父親の話が出た時の狼狽ぶりは父親の拒絶をよく表している。こうした出来事が彼をセックスセミナーの伝道師になるきっかけとなったのかもしれない。
ここで興味深いのが自分を捨てた父親を憎んでいるのだが、自分も女性を物として扱い「捨てる」という行為を行なっていることだ。自分が最も嫌う存在と同じことをしてしまう。彼はそれに気づいているのだろうか。よくある話だが、DVを受けて育った子供が大人になり家庭を持つと同じDVを繰り返してしまう。この点も何か通ずるものあるのだろう。
救いはあるのか?
愛着障害を抱えた人たちに救いはあるのだろうか?答えはイエスだ。その方法はこの映画からよくわかる。
まず一番有効な方法は親との和解である。和解することにより自分は親にとって「不要な存在ではなかった」というメッセージを受け取ることができる。「安全基地」があるはずの部分にぽっかりと穴が空いているがそこを幾らか埋めることができるのだ。マッキーは父親から「会いたい」と呼ばれ、最後を見とどけることができた。自分は父親を憎んでいながらも父親を慕い求めるアンビバレンスな感情をトム・クルーズは見事に演じていた。この映画の蛙が表す「救い」や「癒し」がちょうどなされている時にこの和解が行なわれていることにも注目できる。
だが現実問題親と和解できるケースは少ない。よってもう一つの対処療法は親のように愛や是認を示してくれる対象を見つけることである。クラウディアの例を見てみよう。彼女は父親との和解は絶対に無理である。故に彼女を救えるのは彼女を全面的に愛してくれる異性の存在である。それが警察官のジムだ。彼はクラウディアとの食事をしている時にこう言っている。
「どんな話しにくいことでも僕は驚かない。僕はちゃんと聞く。君の望むいい聞き手になる。そして絶対に裁いたりしない。…なんでも受け止める」
これは「どんなことがあっても君を嫌いにならない。君への愛や信頼は変わらないよ」というメッセージが込められている。さらにジムは自分が今日拳銃をなくすという失態をしてしまったことを話した。彼女に嫌われることを恐れることなく。これも「こんなことを話すと嫌われるのではないか」という自尊心が欠如しているクラウディアを助ける橋渡しをしている。
だがクラウディアの心の傷は深い。そんな簡単に人を信じれるものではない。また本当の自分を知られることの恐怖ゆえにその場を立ち去ってしまう。そこで母親が登場する。母親はなぜクラウディアが父親を憎んでいるのかわからなかったがその答えがわかったのだ。娘のところに駆け寄りおそらく娘をなぐさめ分かり合えたのだろう。ここでも蛙が降っていることに注目できる。母親と分かり合えて気持ちが前向きになったのだろう。次の日ジムがまた訪ねてくる。自分を卑下しないでという言葉とともに再びクラウディアへプロポーズする。彼女はそれに笑顔で答えたのだった。
このように親との和解や親のように愛着することができる対象を見つけることが愛着障害を抱えた人たちが幸せに生きる方法なのだ。
天才クイズ少年スタンリーを取り上げていなかった。彼はまだ子供だがこの話の中で救われたのだろうか?父親は彼を愛情深く世話をするのはなく、クイズに勝って稼げる奴隷のように扱っていた。それでも自分の父親からの愛情が欲しい。その現状に従っていたスタンリーだがついに爆発する。「僕はオモチャでも人形でもない」と。クイズ司会者ジミーに向けて語られた言葉だが実際は父親に向かって叫んでいたのだ。その態度に父親は激怒する。蛙が降った後、スタンリーはベッドで寝ている父親に向かってこう話す。
「パパ、僕を大事にして」
子供が一番欲しているものをすごくストレートに表した言葉である。しかし父親の言葉はこうだった。
「寝ろ」
父親はスタンリーの言葉を無下に突き返したのだった。私はスタンリーは救われなかったのではないかと思う。出演者たちで「Wise up」を歌うシーンがあるのだがスタンリーが歌っていた歌詞が「just give up(あとはただ諦めるだけ)」だったのは偶然ではないのではないか。彼はこれから父親からの愛情を諦めていくのだ。
総括
ハリウッド映画における「父親と息子」の話というのは、息子が父親を乗り越え自立した大人へと成長する姿を描くのが一般的である。だがこの映画は逆である。父親に翻弄された息子の話である。父親からの愛と是認を得たいけれども得られない、そんな葛藤が表れている。ある者は是認され、ある者は諦め、そしてある者は別の方法で癒されていく。非常に現実的でありハリウッド映画のような夢や希望を与えるものではない。
これはやはりPTAの人生そのものがこの映画に反映されているからだろう。父親に捨てられたPTAは父親と再会する時がくる。それは父親が末期の癌だとわかった時だ。まさにこの映画のシナリオと一緒である。また彼はクラウディアのような女性をたくさん知っているとも述べた。愛着障害を抱える人同士は惹かれあう。PTAの人生の中にクラウディアのような女性と知り合う機会がたくさんあったのだろう。この映画を簡潔にまとめるならばPTAの父親からの愛と是認を求める魂の叫びとも言えるだろう。
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