世界の笑い!?
分かりやすい本編
全365話で構成されたアニメ作品で、1話が5分弱としても、全てを観通すと30時間を要します。
ショートアニメという構成ですが、全編の長さは非常に長いことが特徴だといえます。
しかし、制作スタッフは、取り扱うネタを考えることには困らなかったことでしょう。ジョークを扱った文庫というのは、最近では見かけませんが、それでも既存で出版されているものは相当数に上ることでしょう。それをアニメーション化しているだけのアニメ作品なので、ネタ作りに困ることはなかった作品だと考えられます。
ただ、出版されているジョーク本は、読んで、すぐに理解できる内容は少ないです。
少なくとも、そのジョークの背景となっているものを考えなければ、理解できない内容は多いです。しかし、このアニメ作品においては、観て、すぐに理解できる内容だったので、元ネタを噛み砕き、再構成されているだと考えられます。逆に、日本人に理解できる内容、ショートアニメとして再現が可能のものを抽出することが大変だったことでしょう。
随分前に出版されていたジョーク本のシリーズに、「ポケットジョーク」というタイトルの文庫本があります。ここから抽出された元ネタも多かったのではないでしょうか。特に、男女の浮気や不倫を扱ったネタが多いのが「ポケットジョーク」という文庫本です。そして、当作品においても、第1話からそうでしたが、浮気や不倫を扱ったネタも多かったです。
そのことから、「ポケットジョーク」から抽出されたネタは多かったのだと考えられるのです。
また、取り扱っているジョークの内容も、「ポケットジョーク」で扱われている内容を思い浮かべるものが多かったことも付け加えておきます。
ただ、ジョーク本は、文章を読み、その背景を考えてポイントを探して、どこが面白いのかを考えなくてはなりません。その手間がなく、手軽に楽しめることが、当作品の魅力といえるのかもしれません。
解説場面の違和感
毎回の話の作りが、劇中劇で構成されています。
取り扱うジョークは劇中劇の中で展開させ、ネタが終わると解説と感想を述べるパートに移ります。こういった構成であることで、主人公のキャラディが、ジョークが終わるところで大笑いしています。しかし、観ていて、違和感がある場面ではなかったでしょうか。
そんなに大笑いできるネタでもないのに、大笑いしている登場人物たちが不自然に映るのです。ジョークの場面と、主人公のキャラディなど登場人物が会話する場面は、明らかに作画のタッチが違うことから、別々で制作されているのだと考えられます。
そのことから、ジョーク場面と登場人物が会話する場面の繋がりが、一辺倒に笑っている登場人物を描くものであり、違和感が生まれるのだと考えられます。そして、あまり面白くなかったジョークを、無理矢理にでも登場人物が笑っていることで、面白さを押し売りしているようにも感じられます。
さらに、アニメーションであるからには、キャラクターの声の吹き込みをしているのは声優です。大笑いしている声優の演技が、わざとらしさを感じさせ、レベルが低いことも違和感があることの原因になってしまっているのだと考えられます。
また、キャラディの声優を担当している安田美沙子さんも、本作品の印象に合致しておらず、キャスティングミスだと考えられます。
確かに、お笑いといえば、関西弁というイメージから安田美沙子さんが起用されたのだと考えられます。タレントとしてテレビ出演されている安田美沙子さんの印象より、本作品の解説では関西弁を強く押し出した話し方をされています。そのことから、関西出身であり、関西弁を話すことができる安田美沙子さんを起用したのは明らかです。
しかし、安田美沙子さんが話す関西弁は、お笑い芸人が話す大阪弁ではなく、京都弁なのです。
関西弁とひと括りにしても、大阪弁と京都弁では、印象が全然異なる方言です。また、文化においても、違う地域であることは間違いないことでしょう。事柄を直球で投げる大阪弁に対して、オブラートに包んで優しい表現を用いるのが京都弁なのだと考えられます。直球の会話をする関西弁に対し、言い換える表現を用いることで、相手の気持ちを察する文化が京都弁といえるのです。
大阪の方には失礼かもしれませんが、大阪弁より京都弁の方が上品という印象は一般的なのではないでしょうか。
だからこそ、安田美沙子さんの話す京都弁は、ブラックユーモアや下品もある当作品の印象に合致しないと考えられるのです。これは、安田美沙子さんの技量ではなく、キャスティングを担当したスタッフの問題といえるでしょう。
お笑い、ブラックジョークの含まれる当作品に、上品な京都弁が合わないと考えられるのです。
ブラックユーモア
取り扱われたジョークネタのほとんどが、皮肉を描いたブラックユーモアでした。
しかし、本来のブラックユーモアには、皮肉が込められていることで、社会風刺の意味が含まれていたものが多いのです。しかし、当作品においては、風刺というより、笑い要素が強く打ち出されています。制作スタッフは、意図的に、元ネタのジョークから風刺の要素を取り除いたのだと考えられます。
元々、ジョークは、人伝いで伝わっていく媒体だったと考えられます。
人と会話するときの話のネタとして、ジョークネタがありました。面白いネタを仕入れれば、誰かに話して、共感・共有したいと思うのが人間の心理だと思うのです。そうして、人の口伝いでジョークは広がっていくものであり、人間社会の中で広がっていく媒体です。だからこそ、別の意味として込められた社会風刺においても、口伝いで伝播していくものだったのではないでしょうか。
考えてみれば、社会風刺を発信したいという前提があって、人間社会に伝播させる方法が、ジョークだったのかもしれません。今の世の中のように、情報発信ツールが確立されていなかった時代において、情報を伝播させる手段は限られていたと思われます。
インターネットもテレビもない時代には、ジョークは、情報や風刺を発信するためのツールとして用いられていたのかもしれません。
しかし、当作品はテレビ放送されることを前提に、ジョークネタを扱っているのです。
そして、情報発信ツールも発達しており、風刺や情報を伝播させるという役割を、ジョークが担わなくてもよいと考えられます。だからこそ、風刺という意味合いが、当作品においては影を潜めたのだと考えられるのです。
当作品を観ていると、ジョークそのものの使われ方や意義が、変化してきていることが伺えます。
存在意義の考察
昨今、ジョークと呼ばれるものに関心が集まらないといえます。
それは、日本におけるお笑いとジョークでは形式が違うものだからではないでしょうか。しかし、海外では、日本のお笑いスタイルより、ジョークの方がメジャーな存在といえます。本編を観てお分かりのように、ジョークは物語形式で構成されているものがほとんどです。しかし、日本の笑いは、漫才やコントのようにリアリティーがあるものが多く、日常生活の面白い着眼点や、突拍子のない展開で笑わせるものが多いのです。
ジョークはファンタジー構成なのに対して、日本の笑いはリアリティー構成だと考えられるのです。
また、ジョークはネタ一つに対して、基本的には一つの笑いを狙ったものです。物語のオチの部分で笑わせる構成なので、笑える部分は一回で構成されているのです。それと比較して、日本の笑いは、いくつもの笑いのポイントを設定し、複数で構成していることが挙げられるのではないでしょうか。複数で構成されているから、テンポや間が重視されると考えられるのです。
どちらが良いのか、悪いのか、その部分は置いておきたいと思います。
しかし、日本の笑いとは方向性の違うジョークというものに焦点を当てた作品であるということです。また、時代背景としては、ジョークに関心が集まらない世の中で、敢えて打ち出された内容だということです。
しかし、ジョークという文化が、日本の中で忘れられそう、風化してしまいそうな存在なのに対して、ジョークという文化の存在感をアピールしている作品と考えることができます。
きっと、制作スタッフは、ジョークという文化が好きなのでしょう。
そして、風化されてしまうことが嫌で、企画立案されたのではないでしょうか。忘れ去られそうで、風化してしまいそうな文化に、今一度、焦点を当てたかったのだと考えられます。また、今の世の中でも受け入れられるように工夫がされていると考えられます。
ジョークという文化の掘り起こしをしたかった作品だと考えることができるのです。
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