一度、きちんと読んでみたかった作品
原点に触れる
ジキルとハイドというフレーズは、二面性を表す記号のように浸透しているけれど、原作はどうだったろうか、という動機で本書を手に取った。直接のきっかけは、スティーブン・キングの『死の舞踏』というホラーを論じた著書で触れていたからである。長きにわたって語り継がれる作品には、共通の匂いがある、というような話であり、自分で直接確かめたくなったのだ。
発表された時代と現代を比較しながら読むのも楽しい
この作品は、一八八六年出版、つまり百三十年も前の作品である。日本では鹿鳴館時代ということになる。
そのため、人物描写や設定には時折わかりづらい箇所もある。主人公の弁護士は、愛想が悪いわりには人に好かれる性格だったりするし、ジキル博士の侵した殺人事件を窓から覗いていた目撃者の女性は、すぐに誰かを呼んだりせずにやっぱり失神してしまう。
私は専門家というわけではないので、それがスティーブンソン独自のテイストなのか、当時の小説技術の限界または流行だったのかまではわからない。
けれども、そうした事に躓いていては、この物語の魅力を楽しめないので、私はなるべく当時の人間のような気分に浸りながら、暗いロンドンの街で起こる事件の行方を見守り、物語を楽しんだ。。
記憶違いと新たな驚き
こんなに有名な小説なのに、やはり原作を読んでみると自分が記憶違いをしていることに気付く。
もしかしたら、後年になって本作をベースに書かれた他の物語や、映画、アニメ等々の影響で、いつの間にか違うイメージを植え付けられてしまっていたのかもしれない。
細かい思い違いは、もちろんいろいろあるのだが、一番の勘違いは、主人公が弁護士で、そもそもジキル博士の友達だったという設定だ。私の中では、とんでもなく凶悪な犯罪者がたくさん事件を起こし、そこに善良で徳の高いジキル博士という人物が浮上してきて……という推理小説風の構成をイメージしていたのだが。
主人公の弁護士は、最初の段階からジキル博士のことを心配しているし、ハイド氏の悪行を目撃している。わりと狭い範囲で事件は繰り広げられているのだ。警察官はほとんど出てこないし、ハイド氏も思ったほど我を忘れた暴君というわけでもない。むしろ、苦悩の方が強い印象だ。そして物語全体も、ある奇妙な出来事について、という趣の淡々とした語り口である。だからこそ、時々妙に生々しいところもあるのだが。
古典は楽しい
徳のある人物が大悪党、またはその逆、その発展型、など、人の二面性をモチーフにした小説は山のようにあるけれど、原点ともいうべき作品を直接読んでみるのは楽しい。訳が古かったり、テンポがゆっくりだったり、今風に慣れていると読みづらい事も多いけれど、そこがまたいい。違った満足感が得られるのでやめられない。
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