本物と偽物が交差する世界で
本物と偽物はどちらが正しいのか
基本的に娯楽作品であるアニメーション作品の背景に、制作・放映当時の社会的・政治的背景を絡めて語るのは、憚られる部分もあるのですが、一方で制作陣もその時代を生きていた同時代人であり、その時代なりのメッセージを視聴者に伝えたいと思って作品を制作するのも常であるのを鑑みるに、少し『明日のナージャ』が制作・放映された2003年~2004年頃という社会背景を踏まえてみたいと思います。
一番の大きい出来事としてはやはり2001年の9.11アメリカ同時多発テロがあります。当時の状況は現在様々に解釈・分析されているとは思いますが、当時しばらく、世界情勢が「正義の陣営VS悪のテロリスト」という「分かりやすい」構図を敷く方向に向かっていったのを覚えている方も多いかと思います。
そんな中、当時の日本の創作作品が描いたのは(今回は『明日のナージャ』の話題なので代表として東映を念頭に置きますが)、そのような正しさと正しくなさを単純な図式に収斂させていく流れに対して、少し疑念の目を向けるように、「どちらが正義でどちらが悪かは分からない」ということでした。
『明日のナージャ』の同時期の東映特撮作品が『仮面ライダー555』であったことなどからも、当時そういった視点があったことはうかがえると思います。『仮面ライダー555』も、「人間とオルフェノクのどちらが正しいかは分からない」という視点が根底にある作品です。
『明日のナージャ』の場合、この「正しいVS悪」のシンプルな構図に揺さぶりをかけている部分は、主には二組のキャラクターの関係性を通して描いていて、それは、
・本物のフランシスVS偽物のキース
・本物のナージャVS偽物のローズマリー
の二組です。
単純に本物であるフランシス、ナージャが正しいわけではない。そういう視点がある作品かと思います。
共闘するフランシスとキース、脱構築されるナージャとローズマリー
フランシスとキースの関係は、いわば本物の貴族であるフランシスがお金を持っていてノブレス・オブリージュを標榜しているのに対して、キースの方は怪盗黒バラとしてお金持ちからお金を盗んで貧しい人たちに分け与えていると、格差問題が取りざたされている近年においては「再分配」の問題を扱っていて、それ自体興味深かったりするのですが、この二人の帰結はわりと捉えやすく、最終的に二人は「ナージャが大事」の一点でお互いに疎通するものがあり、一種の共闘関係に落ち着きます(直接的に戦闘で共闘するというような意味ではなく、二人ともナージャを第一に行動するという関係という意味で)。
こちらの流れはわりと分かりやすいです。シンプルには、どちらにも正義はある。ならば、双方の価値観に一致する部分があれば共闘もできるというような話です。
より複雑かつエッジが効いた部分を扱ってるのは、次のナージャとローズマリーの関係です。
本当に「分かりやすく」描こうと思えば、実は本物の貴族のお嬢様であるナージャが、その真実性でもって、偽物で敵役のローズマリーを打倒する……という物語になりそうな所なのですが、実際の所本作では、物語終盤でも、ローズマリーの信念自体は打倒されません。
ローズマリー退場時の印象的な台詞を少し引用してみましょう。
「そして私は私のお城を探す 自分の力で見つけてみせる」(ローズマリー)(第49話「諦めない!真実の力」より)
大まかには女子の自立をうたっており、このように言い放って、堂々と歩いて行く……というのがローズマリーのラストシーンです。
もちろん劇中で悪いことはしていますし、真偽の観点からは明らかに「偽」のポジションにいたローズマリーなのですが、その思想自体は、20世紀以降的なもの(つまり当時からすると先進的なもの)で、なんとも、結局、ナージャとローズマリー、どっちが勝ってどちらが負けたのか、どっちが正義でどっちが悪だったのか、どっちが本物でどっちが偽物だったのか、なんとも「よく分からない」終わり方になっています。
このような、対立するAとBの命題があって、掛け合わせてCという上位命題に「止揚(アウフヘーベン)」するでもなく、AとBのどちらがどちらだか分からなくしてしまうような、どちらが主でどちらが従とも言えなくしてしまうような知的操作を、「脱構築(デコンストラクション)」と批評や哲学の世界では言ったりします。そういう意味では、ナージャとローズマリーの関係性の帰結はどちらが勝った負けたなどではなく、またもちろん和解できたとか共闘できたとかでもなく、「脱構築」エンドだと私は思っています。
何が正しいか分からない世界で信じられるもの
この、ナージャなのローズマリーなの? ローズマリーなのナージャなの? みたいな「脱構築」状態は、実はとても不安な状態でもあります。
先ほど「よく分からない」という言葉を使いましたが、過度の単純化こそを警戒し、そう単純ではないということを表現するのを意図していたとしても、人間がよく分からない状態を不安に感じてしまうのも、また本能的な性質です。
『明日のナージャ』の良い所は、こういう脱構築されてしまった不安定で不安な世界を遠景に描いておきながら、そんな不安な世界でも「信じられるもの」をも大事なものとして描いていたことかと思います。
その正体は、ありふれた言葉になってしまうかもしれませんが、人と人との「信頼」かなと思います。身分とかイデオロギーとか、そういう話以前に、よりミクロに築き上げた人と人との関係性に基づく「信頼」。そういうものを描いていたと思います。
大きくは、「家族」という共同体に基づいた「信頼」を大事なものとして描いていたでしょうか。
疑似家族としてのダンデライオン一座とナージャとの関係と、本当の家族としての母親コレットとナージャとの関係がこれにあたります。
物語の最終局面で、途中一旦はお別れしたダンデライオン一座が駆けつけてきてくれる展開は、こういった不安な世界でも信頼できる人々がいるということのありがたさが感じられます。
一方で、「プレミンジャー家など私にとってはどうでもいいことです 大切な娘と比べる価値もありませんわ」(第48話「逆転!黒バラの最後」より)と言い切ってくれる母コレットからは、身分や境遇といった表層を超えて、親が子を想う気持ちというものには、何物にも左右されない普遍性のようなものがあるのを感じ取れます。
不安定な世界の中での、信じられるもの、拠り所。
さらに進んだ脱構築的世界で我々が抱きがちな不安の処方箋のようなものを、本作の中から見出してみようという態度で改めて視聴してみてるのも、『明日のナージャ』が放映されていた頃よりも、さらに何が正しくて何が正しくないのか「よく分からなく」なってる世相でもある近年、有意義な時間になるのではないかと私は思います。
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