修羅の一生
飢饉で人々が理性を失い、本能のまま食料を求め、時には死体や生きた人間の肉すら喰いながら生き続ける混沌の時代。
いつ殺されるか、いつ喰われるかすら分からず貧民層の人間たちは互いを殺し合い、血と狂気の日常の中で懸命に生きていた。
そんな時代に生まれた哀れな獣・アシュラ。言葉を発さず、獣のように獲物を求め徘徊する姿に衝撃を受けた。まだこんなにも幼い子供ですら人肉を喰らい生き続けている事が現代ではある種のタブーとして語られるのも無理はないだろう。しかし遥か1000年前は日常的な光景であったのも事実だ。
日本がいかにして現在のように平面上に豊かになったのは、「飢え」というものを痛烈に知っているからこそなのではないかと私は思う。かの応仁の乱では都が甚大な被害でほぼ壊滅状態で、飢餓や強盗・疫病など様々な痛手をこうむった。のにも関わらず、数十年の時を経て再興し、現在までに発展できたのは過去の失敗が役立っているからではないのだろうか。
半狂乱ながらも母に愛され、幸せそうに微笑む赤子のアシュラ。しかし人肉だけでは到底その日ぐらしになることは目に見えていた。何も考えられなかった母親の瞳には、無邪気に笑う我が子。狂気に満ちた目で実の息子を火に投げ入れ、その肉を食べようとしたのだ。血の繋がりがあろうと、人は理性を失うと我が子ですら喰らうことに対するためらいなどなくなるのかと本気で信じてしまうほどのシーンであった。
響き渡るつんざくようなアシュラの泣き声。それは人としての人生に終わりをつげ、獣としての人生を歩むための産声のようにも聞こえた。奇跡的に生き延び、自然などで野生児のように暮らし、同じ人間であろうとためらいもなく食らいつく。
それでも彼に人として生まれた意義を教える僧や、心優しい少女にも出会えた。中盤から本能で動く事しかできなかったアシュラが涙を流し、笑い、照れる…。感情豊かなその姿を見て、私はとても感激した。「ああ、こうしてアシュラはようやく人間になれたんだ」と。
しかし人は残酷だった。
アシュラは恋の痛みを知り、その痛みが分からず苦悩する。そして終盤は泣いていた。
彼は人が持つ「嘘」と「真実」の違いを知らず育ってしまったため深く傷ついたのであろう。純粋すぎる本能で、大好きな人から嫌われる恐怖を味わいなくその姿は哀れでならなかった。
あのまま、彼は獣のまま生き続けていたほうが幸せだったのかもしれないと私は思う。
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